「極端に遅いミニ四駆」が浮かびあがらせる問い
8月最後の日曜日、子どもたちと初台まで足を運んでICCキッズプログラム『どうぐをプレイする』を見てきました。テクノロジーの進化と未来を賞賛するような科学展ではもちろんなく、アートの視点から技術・道具の逸脱した見方・使い方を遊ぶような展覧会でした。
とりわけ、もうすぐ2歳児と4歳児が釘付けになっていた作品が、やんツーさんの『近代的価値から逃走する』でした。これは、速さを価値としているミニ四駆を極端に遅くしたものを、鑑賞者がコースを走らせる作品です。
今日はこの作品から考えた「遅さ」あるいは価値を反転することで奪われる意味について考えていきたいと思います。
異様な遅さのミニ四駆を鑑賞する子どもたちの言葉
ミニ四駆世代であるぼくは、目にも止まらぬ速さでモーターを唸らせ熱を上げながらカシャーッと走るミニ四駆をしっているので、この1秒に5mmほどしか進んでいないような驚くべき遅さで動いているのは、なんだかギョッとするものがありました。
ある程度の速さで走るラジコンやプルバックカー(チョロQ)などを目にしている子どももその異様な遅さに釘付けになっていました。何が彼らの心をそんなにも奪ったのかよくわからないのですが…。
作品を鑑賞する子どもたちの言葉をふりかえってみると、たとえば「これはちょっとだけ速いね」というような、遅い中でも速いミニ四駆(それでも1秒に1cmほど進む)に価値を見出すような語りもありました。「後ろから速いのがぶつかってきたら、先に行かせてあげたらいいよね」と、速さの違うミニ四駆がどうすれば共存できるのかを考えているような語りもありました。
技術による価値の剥奪
印象的だったのは、「みて、ここまで進んだよ」と、まるで植物の育つ経過を観察したかのように、あるいはトースターでパンが焼けるのをじっくり見守ったときのように、時間をかけて見たことそれ自体を価値としているかのような語りでした。
しかし、植物であれば成長します。トーストであれば焼き上がります。このような「完成」や「成長」が遅くても実現するのだけど、この遅すぎるミニ四駆はただコースをじわじわと蠢き、電池が切れていく。それだけなのです。
しかも、詳しくはわかりませんが、超低速ミニ四駆として、さまざまな技術を用いて改造されています。この「完成」や「成長」もしくは「勝利」といったミニ四駆の醍醐味を剥奪するために、技術が用いられているのです。
遅さが価値となる場合
タイトルの『近代的価値から逃走する』にも込められている「価値」という語について考えてみます。ぼくたちは普段から「速さこそ価値」とでもいうように、とにかくWi-Fiは速いほうがいいし、料理も時短がいいし、仕事も速い方がいいと思っていることが多いです。
他方で、それを逆転して「遅さこそ価値」とするような提案もかつてからあります。「スローライフ」と言われるような生活スタイルをはじめ、「マインドフルネスイーティング」では、静かに、1時間かけてゆっくりと咀嚼しながら食事をするような文化もあります。「隠ヨガ」は一つのポーズに数分かけてじっくりとストレッチしていきます。
Yahoo!やメルカリでは、遅い宅配にポイント付与をするような取り組みも見られています。コロナ禍で加速した宅配需要に対応できず、慢性的な人手不足に陥り、ドライバーの労働環境が悪化しているなかで、「遅さ」に価値をつけることで見方の転換を図るようなやり方も生まれています。
意味の剥奪による問いの生成
たしかに、速く、たくさん、強いものをつくるのではなく、遅く、少なく、弱いものをつくり、価値の転換を図っていく逆張りの戦略提案は一つの有効な発想法でしょう。
しかし、あらためてやんツーさんの作品について考えてみます。速く走ることが価値であったミニ四駆を遅くすることで、価値を反転させているわけではありません。遅いことが何かの問題を解決したり、遅いことが健康促進につながったりするわけではありません。
遅くなってしまい、意味を奪われたミニ四駆をぼーっと鑑賞していると、「遅さ」とは何か、「速さ」を求めていた我々とは何だったのか、あるいは「技術」とは何のために用いられるべきものなのか、そうした問いが浮かび上がってくるのです。
今、速く、たくさん、強くあるべきものを逆転させ、遅く、少なく、弱いものが生まれたら、それはどんな問いを私たちに喚起するのだろうか。あなたが急いでいること、もっと欲しいと思っているもの、強くあってほしいと感じているものが逆転し意味が奪われてしまったとき、何が浮かび上がるのでしょうか。
やんツーさんにならって、何か速いものを遅くして、意味を奪いたくなる、そんな衝動を触発する素晴らしい作品でした。