経験したことない― まさかそうはならんだろう(最終回)
生まれてはじめて、39.6℃を体験した。まさかそうはならんだろうと思っていた。2回目のコロナワクチンを接種した翌朝の体温は37.5℃だった。意外に軽く済んだと安堵したが、1時間後に38.5℃となり、頭が痛いと思ったら、39.0℃。解熱剤を飲んで少し下がったが、すぐに上昇。接種24時間後に寒くなり、39.3℃。2度目の解熱剤を飲んだが、なかなか下がらず、39.6℃。寒くなり、厚着をして横になった。夜中の3時に寝苦しく、体温を測ると39.0℃。3度目の解熱剤を飲んで眠る。朝6時に目が覚めると、36.7℃と平熱となった。熱は下がったが、それからは猛烈な頭痛に襲われる。それも、接種3日後の朝になくなった。周りの人々の2回目ワクチン接種副反応の話を多く聴いていたが、“私は大丈夫” “まさかそうはならんだろう”と考えていた。その「まさか」がおこった。
1.自分に執着する日本人
スポーツの世界は実力社会。トップに君臨している人が大切な試合に負けた。「今回は負けたが、次は必ず優勝します」といったりするが、次があるかどうかはわからない。優秀な人材が次から次とあらわれてくる。いつまでもその地位にとどまりつづけられるとは限らない。
芸能の世界もそう。いくら一世を風靡した芸人でも、いつまでもトップでありつづけらるわけではない。トップの席を譲るときは必ずくる。いつか人気は次の代に移る。
静かに去らねばならない時期は必ずくる。いつまでも“私は”“私が”といっていられない。新しい人に交替しないといけない時期はやってくる。「やりそこなったら、そこで終わり」― 自らの分(役割)・責任を果たせなくなった古い細胞は新しい細胞に新陳代謝される。それが生き物の道理である。しかし日本社会には、そうしない人たちが多くいる。それはなぜか。
日本人は自分に執着する。
これが、万事をうまくいかないようにしている。日本の経営者には、年輩者が多い。世界の経営者には、日本のような高齢経営者は少ない。なぜならば経営に失敗したらクビになる。しかし別のところで復活する。
成功は「功を成す」と書く。戦国武将が敵将の首をとって「功を成す」というニュアンスがあるが、むしろ「成就」がしっくりする。成就は「成るに就く」と書く。就とは、仕事・任務につくこと、物事を成し遂げること、願いが叶うこと、めざしていることを達成すること。一般的に言っている「成功」という漢字よりも、「成就」の方がすっきりする。
「失敗」は「失って敗ける」と書き、日本人は復活できないような失敗観をもつが、「やりそこなう」ともいう。やりとは遣唐使の遣で「遣(や)り」で、「遣(や)り損なう」は、し損じること。だから一般に言っている失敗は、勝ち負けの「負ける・敗ける」ではなく、取り損なうという意味が強い。英語で失敗をfailureと訳すが、どちらかというとmistake(ミス、取り損ない)の方が意味的には近く、失敗してもそれで終わりではなく、何度でもチャレンジする。中国語も日本語の「失敗」と同じ漢字を使うが、立ち直れる失敗を意味していて、日本人の敗北に近い失敗観とはちがう。
欧米の会社は経営と所有を分離しているから、経営者が経営責任を果たせなかったら、株主や株主総会が経営者・取締役をクビにする。しかし日本は経営と所有が実態的に一致しているから、取締役会でも株主総会でも、幹部はクビになりにくい。だから古い体質をいつまでもひきずりやすい。大損害を出しても、大失敗しても、クビにならない。それが組織風土・文化に大きな影響を与える。
次、頑張れ
次、挽回したらいい
実質的には経営と所有が分離していないから、株主対策で経営責任を霧散させる。「折角」、これまで頑張ってきたのだからもういいだろう。今回の「損害」や「失敗」は「仕方なかった」こと、「すみません」と頭をさげることで禊(みそぎ)を済ましたこと、責任を果たしたことになる。そのように失敗から学ばないから、また、同じような「損害」「失敗」が繰り返される。
2.「仕方ない」には2種類ある
最近、「レジリエンス」という言葉が安易に使われるようになった。
2011年3月11日の東日本大震災以来、日本社会でレジリエンスがよく使われるようになった。この10年、地震・台風・集中豪雨ごとに、レジリエンスがでてくる。「今までに経験したことない」と表現される災害に何度も何度も見舞われる。「まさか」というような災害が発生するたびごとに、レジリエンス体制構築の必要が主張される。そもそも、そういうことがないようにするのがレジリエンスの本質である。
こうなるかもしれない、ああなるかもしれないと、徹底的に有事に起こりうる状況・事柄を考えて、事前にその対策をしておくことがレジリエンスの基本である。しかし「経験したことない」というような有事がおこるたびに、レジリエンス構築の必要性が出てくるのは、事前にそれに備えていなかったからであり、「まさか」を前の災害時・損害時に本気で考えていなかったからである。
失敗には、「仕方ない」失敗があることはある。そういう失敗は確率論的にありうる。しかし1回目の失敗は「仕方ない」が、次に絶対に起こらないようにしないといけない。2回、3回と同じ失敗をしたら、それは「仕方ない」では済まない。「仕方」とは目的を達成するために物事をする方法のこと。「仕方ない」とは目標を達成する方法がないということ。
しかし「仕方ない」失敗のなかには、準備不足で起きる「仕方ない」が多い。表面的に見える問題=トラブル(trouble)にばかり目が向き、その対処療法ばかりに終始して、その問題をひきおこしている目に見えない根本的な課題=プロブレム(problem)を特定し根治療法しないので、繰り返し繰り返し同じような問題が起こる。
だから追い求めるべきことは、目に見える問題(トラブル)ではなく、目に見えない課題(プロブレム)である。「問題」をひきおこす「課題」をつかむことが、大切な解決法のひとつである。
3.現在の自分・自社を超えつづける「超自分」 「超自社」
ものづくりも同じである。ものづくりは失敗を経験して、失敗に学び、より良いものをめざして、なんどもなんども改善しつづける。だから失敗を怖れない。失敗したらそれでおわりではなく、失敗は、先に述べたように仕方ない、取り損ない、遣り損ない、ミステイクである。しかしその問題発生の真の原因を見つけようとせず放置するから、また問題が発生する。それは「仕方ない」ではない。
ものづくりは、失敗した事柄(=問題(トラブル))に対して、なにがこの問題をひきおこしているのかという課題(プロブレム)をつかみ、それをどう対策するかというオペレーションリサーチをして、次の機会はそうならないよう、次の製品ではその問題が起こらないよう、繰り返し改善しつづけることで、進歩させてきた。
新興国が台頭し、日本はコスト競争に陥るようになった。そこでいかにコストを安くつくれるのか、安価だけど高級品風にいかに見えるものがつくれるかというものづくりとなって、「Made in Japan」という「日本性」の多くを無くしてしまった。
そして日本のものづくりは「Design by Japan」の「Made in Taiwan」のようになった。日本人は、万がいちのことがないように、お客さまが困らないように、どうしたらいいかを考えて、ものをつくってきた。たとえ外国でつくられたとしても、「日本」が絡んだ製品は壊れない、さすが日本人がかかわった製品は良いなぁといわれるものづくりをしてきた。だから外国でつくったからといって、すぐに壊れても仕方ないというような「日本性」は認めてこなかった。
そんな日本で、これまで見たことがないような、聴いたことのないような電気製品があらわれ、売れるようになった。たとえば健康器具・調理器具で、海外で売れている安価な製品を日本に仕入れて売るようになった。
昔はモノづくりが判っている商人が多くいて、調達してくる製品にもこだわった。しかし今は、調達でこだわるのは、「いくらで仕入れられるか」であり、”この値段だから、これくらいの品質は仕方ない”と考えるようになった。そして「日本性」が薄れていった。
「金」を追いかけるから、そうなった。品質とかサービスを追いかけて「金」にするのではなく、まずはじめに「金」を追いかけるようになって、そうなった。それがすべて悪いというわけではない。そういう世界もある。そんな製品を求めて買いたい人もいる。
こうでなければいけないという「パターナリズム」のように、ひとつの形だけをおしつける発想はするべきではないが、日本の強さを形どってきた「日本性」、機能性(性能×価格×納期)を担保し、そこに精神性を盛り込み、高度に洗練させて、多様化してきた日本のモノづくりが弱くなったのは事実である。
良い「日本的なもの」はまだまだ多くある。しかし良いものかもしれないが、高すぎて買えないものが多くなった。良いものを安くつくってきたものづくりができなくなりつつある。たとえば着物。「日本的なもの」というが、日本製でないものも多くなった。立派な日本製であっても、とても易々と手に入るものではなくなった。そんなことを繰り返していたら、本当の「日本的なもの」がつくれなくなる。
なぜそうなるのか。そこに、「折角、頑張ってきた」「まさかそうはならんだろう」という思考が、ものづくりの世界の根底に流れているような気がする。今までの「自分」「自社」「仕方」に執着しすぎ、ずっとそこに立ち尽くして、世の中の変化に取り残され、失敗してしまっているのではないだろうか。
ではどうしたらいいのか ―― 現在の「自分」「自社」を乗り超える。「超・自分」「超・自社」の連続につきるのではないだろうか。