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文化の特徴は「行儀の悪さ」に出る?

異なる文化の間には、いろいろな感覚や認知の差があります。長い間のイタリア生活を経て、最近、ひとつのことを思っています。それは「行儀の悪さこそが、それぞれの文化の特徴」である、と。

日本の人は、どこに行ってもモノを見れば近寄って何でも手でべたべたと触る。イタリアの人は横並びになって歩道を我が物顔に使う。これ、どちらのオリジナルの国では普通ですが、どっちもお互い場所を交換すれば「行儀が悪い」です。だから、異文化理解の一歩は、行儀の悪さをどう判断し、受け入れるか?あるいは「郷に入っては郷に従う」をどの程度に適用するか?です。

遠目にチラリでクルマを眺める。

日本の人は何かのモノを見る時に物理的な接近度が高いです。

日本人のカーデザイナーが「原寸大のレンダリングをみるとき、日本のデザイナーは30センチ近くまで寄る。だが、イタリアのデザイナーは2-3メートルは離れて、カフェを飲みながら同僚と雑談しながら、ちょこちょこと見る」と話してくれたことがあります。

クルマのスタイリングは街のなかで「ふっと」見かけるときの印象が大切です。走っているクルマに間近で見続けることはありえないし、仮に見続けるとしたらフロントではなくバックです。ですから、ジュージャロというイタリアのカーデザインの巨匠はクルマのお尻のデザインに力を注ぎました。

こういうことからクルマ全体のスタイリングのバランスを実現するには、イタリアの人の見方が適当です。日本の人のクローズアップで見る習慣は、こういった領域では足を引っ張ります。

モノの製造品質を見るにはクローズアップ。

しかしながら、この目を凝らしてじっと見つめ、できれば手で触らないと気が済まない、という習慣は、工場でつくられる製品の品質には圧倒的に有利に働きます。日本の製造業が品質で評価されてきたのは、この日本の人のあたり前にあるメンタリティが背景にあったでしょう。

細かいところまで、きっちりと作りこんでいないと気持ちが悪いのです。これが直接繋がるかどうかわかりませんが、数分に一本、およそ時速300キロの電車が走るシステムの構築も、1分でも遅れれば「ご迷惑をお掛けして申し訳ありません」とアナウンスがある社会は、効率よく走り回るには都合が良いです。

ただ、このメンタリティが裏目に出ることがあります。喩えていえば、全体として味のある陶芸の作品にも、工業製品的品質をチェックする目を使ってしまいます。あるいは、イタリアの小売りの店舗に入っても、他人の家に招かれても、断りなしに何でも触る癖を発揮するのです。これは、イタリアでは「行儀が悪い」と見なされます。もう、日本から来た人がこれをやって、何度もぼくは冷や汗をかきました。

延々と歩きながら話し続ける。

ルネサンス期の画家、ラファエロの絵画に「アテネの学堂」があります。哲学者たちが歩きながら議論しています。あの姿は、古代ギリシャだけでなく、現代のイタリアにおいても実に一般的な風景です。

2-4人が横並びになって歩きながら、雑談をするのです。この対話というか雑談というかはさておき、イタリアの人は他人と会話をするために歩くのです。歩くときに、たまたま人がいて会話をするのとは違います。

何か表現するに、書いたものではなく、話すことが同様に重視されるのは、欧州において比較的一般的ですが、イタリアにおいて話しながら意見交換を行い、考えを構築していくのが当たり前のやり方と見なされています。

日本において、何かを考えるために「紙とペンが必要」とか「雑談が有効」あるいは「散歩をすると考えがまとまる」とは言われますが、あまり「何かを考えるために他人と議論する。その目的には散歩が相応しい」とまでは明言しないでしょう。

しかし、結局、歩道を占領することになる。

さように歩きながら会話することに重きがおかれると、歩道を占領して歩くことになります。当然、後ろから来た人への配慮が欠ける行動になりやすいです。

追い越すスペースがなければ、後ろの人が声をかけることになります。そうでなければ、日本なら「小学生がつるんで歩いて、他人に迷惑をかける!」と大人から怒られる風景です。

横並びに歩いているだけでなく、その集団が分かれるときの立ち話がまた長く、塊になって立っています。これも歩く人にとっては邪魔です。しかも、いずれのシーンでも、他人が追い越そうとする場合、気づいたとしてもさっと避けることをしません。極めてゆっくり少々身をひく程度です。日本の人なら「あらっ!」と跳びはねるように避けるパターンです。あるいは、肩をすぼめるようにするかもしれません。

結局、過剰さが行儀の悪さになる。

文化の特徴とは、あまりに当たり前すぎるから、そこには歯止めをする動機が容易に見いだせないのです。よって、往々にして文化の特徴は過剰なカタチで表出することになります。そして、それらの文化的特徴は、もともとの国である限りにおいて、多くの人が問題とすることはありません。

問題なのは、その文化的特徴をもって外国において意識しなかったとき、または、外国人がその文化的特徴が原因で精神的コンフリクトを感じるときです。多くの場合は、「郷に入っては郷に従う」と外国人自身が相手先の文化コードに従うのが理想とされます。

しかし、同時に、その文化の過剰さを警告することも大事で、これが異文化理解を促すことがあります。したがって、「郷に入っては郷に従う」を金科玉条のように扱い過ぎないことも大切な心得だと考えています。

写真©Ken Anzai


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