アートの鑑賞とは触発による変容であり、能動的な作品への関与である
お世話になっております。メタバースクリエイターズ若宮です。
今日は「アートの鑑賞」について思っていることを書きます。
アートの鑑賞に正解はない?
アート思考やアートについて語る時、「正解がない」という言い方をよくします。
アートには解釈の多義性があります。そこが面白さでもあるわけなのですが、だからこそアートはわからない、と言われることも多いでしょう。
とりわけ日本人の大人は(とあえていいますが)「正解がない」のが苦手だったりします。企業などでワークショップをお願いされた際、いわゆる対話型鑑賞をしたりするのですが、アート作品を見て感じたことをを言うのに苦手意識があるのか、みんなが尻込みしてなかなか手が挙がらないことが本当に多いです。
とくに、学歴レベルの高い人が多い大企業ではその傾向が顕著であるように思います。「間違ったことを言って恥をかきたくない」というのが障壁になってしまうようです。高学歴や大企業の方々は入試や就職試験での「テストの勝ち組」なわけですが、それはつまり「正解を当てるゲーム」を誰よりも上手くこなし、それに最適化してきたために、どうしても「正解」があると考えてしまうようです。
「作者の意図」が正解?
では、アート作品の見方の「正解」とはなんでしょうか?
ひとつ比較的多く信じられているものとしては、「作者の意図」があるでしょうか。アート作品は作者のものなので、作者が作品に込めた思いを読み取ることが大事、という考え方です。
しかし、僕はアートにおいて「作者の意図」は正解でないと思っています。
少し前のVoicyの放送でも、アートの作品における作者の意図についてお話しましたが、アート史的に言っても、「作者」という概念は近代になって成立した概念であり、作品を作者に帰する考え方は、アート史の中では比較的短い期間のことでしかないのです。またその後の時代にむしろ作者性の解体が目指されてきたところもあります。
たとえば陶芸では火という自然を完全にはコントロールできないようにそもそも、作品は作者が思った通りにできるものではありません。多くの芸術家が、作品ができあがって始めて自分がつくりたかったものがわかった、というように、「作者の意図」というのは作品ができたのちに、しばしば後付けで用意された説明ですらあります。
「作者の意図」が重要ではないとはいいませんが、それは作品のコンテクストのうちの多くの要素のうちの一つすぎず、それこそが読み取るべき「正解」であるわけではありません。
「鑑賞」の2つのモデル
A. 伝達モデル
アート作品を作者の意図に還元する立場は、「伝達」のモデルだといえます。
作者は自分なりの世界の捉え方「〇」を作品に描きます。伝達モデルでは、作品を見る者がそれを同じく「〇」として受け取った時にコミュニケーションが成功したということになります。伝達モデルの場合、それを「□」として読み取ったら間違い、ということになるでしょう。
しかし、アート作品は必ずしも作者の意図を描いたものではありません。むしろしばしば作者の意図を超えた作品が生まれるのであり、そこには解釈の多様性があります。
B.触発モデル
もう一つのモデルはいわば「触発モデル」とでもいうべきもので、こちらでは作品が鑑賞者のうちに喚起するものは、作者のそれとは異なります。
たしかにアート作品には、なんらかの形で作者の世界の捉え方が表象されています。鑑賞することは、作者の世界の捉え方を疑似体験することではありますが、しかしそれをそのまま受け取ることではありません。
たとえば小説で「美しい人がいた」という文章を読んだとして、どんな姿を思い浮かべるかは読者に委ねられています。
作品を鑑賞するというのは作者のメッセージを一方的に受け取るのではなく、見る者の世界の捉え方も付け加えることなのです。
そういう意味では鑑賞という行為は受動的なものではなく、作品への創造的な関与だということもできます。
マルセル・デュシャンはこういっています。
鑑賞が、作品への関与的行為だとするなら、その意義は作者の意図の伝達ではないことになります。
むしろそれは作者の世界の捉え方と、見るものの世界の捉え方の出会いとでもいうべき出来事的なものです。そしてこの出会いによる世界の捉え方の変容こそ、アートを鑑賞する意義ではないでしょうか。(アート作品との出会いによって世界の見え方が全く変わってしまうような経験をしたことがある方も多いのではないでしょうか)
ここでは鑑賞者は作者の世界の捉え方をそのままに受け取るのではありません。たとえば作者が世界を「◯」として捉え、そのように描いた作品に出会ったとします。しかしもし見るものにとって世界は「□」と見えていたら、作品を通して新たな世界の捉え方を経験することになります。
ここで見るもののうちにゆらぎが生まれます。自分には「□」に見えているものが「◯」でもあるかもしれない。作者の見え方に合わせなくてはいけない、というわけでも矛盾や間違いでもありません。世界をちがう方向からみているだけかもしれないのです。新たな捉え方に出会うことで、世界がより立体的に捉えられるようになります。
鑑賞においてより重要なのは、描かれているものや作者の意図を「読み取る」ことではなく、作品との出会いを通して自らの世界の捉え方を再認識し、変容することではないでしょうか。
美術史や作者の言葉は不要か?
「触発による変容」が鑑賞の本質だとするなら、触発の強度を高めることは鑑賞の価値を高めるはずです。
正解はないとはいえ、どんな鑑賞態度でもいい、というわけではありません。なぜなら触発や変容が起こるためには一定の強度が必要だからです。
そして触発を受けるためにはいわば自ら一度作者のメガネをかけて世界をみてみることが必要です。
作品や作者についての美術史的な知識など美術館でつけられているキャプションは、作者のパースペクティブを追体験するために有用だと思っています。
たとえば美術史を知ることで、芸術家が生きていた時代には世界はどのように捉えられており、その中で芸術家の世界の捉え方がどれだけすごいことだったのか、ということがわかります。マティスはなぜ「野獣」と呼ばれたのか。それは当時常識となっていた美の基準を逸脱していたからですが、時代や前提となる環境を知ることでヤバさが感じられ、鑑賞者のうちにゆさぶりが起こります。
よく、アートには理屈はいらない。ただ感じるんだ、という人もいますが、僕はそうは思いません。なぜならアートは単なる感覚刺激ではないからです。もし単なる感覚刺激に還元してしまうなら、絵画は絵具の色の配置にすぎませんし、デュシャンの泉は男性用便器にすぎません。
あるものを物理的次元を超えて「アートとしてみる」態度とコンテクストが必要です。
ただし、キャプションはあくまで作者の世界の捉え方をより深く追体験するための補助であることを忘れてはいけません。知識は「ゆさぶり」を強化してくれるから有用なのであって、「うんちく屋」のように知識が主眼となりただの情報の披瀝となるなら、むしろそれは鑑賞という体験を阻害してしまうでしょう。
多様な解釈が折り重なることで作品という"場"が豊かになる
同じ絵を見ても人それぞれ違う感じ方をすることがあります。そのどれが正しい、というものでもありません。鑑賞者が作者のメガネからみた世界の捉え方に触発されつつ作品を自ら体験している限り、どれもが正解です。
対話型鑑賞では他人の感じ方を聞くことで新しい視点や考えに触れることができます。作者だけでなく、他の人の世界の捉え方もまた触発として、自分をゆさぶってくれます。
僕はアート作品は世界の捉え方が交錯する”場”のようなものではないかと考えています。
そこでは作者だけでなく、見る人の視点も追加されることで世界と、他者との関係の線が増えていきます。鑑賞者の解釈が付け加わりさらに作品の意味は豊かになるのです。
アートワールドにおいて、作品は作者だけで生み出されるものではありません。鑑賞者と、その代表たる批評家やギャラリストがそこに自分なりの世界の捉え方を追加した、解釈の束によってアート作品は物理的な次元を超えた意味を持ちます。
アートの鑑賞において、正解に囚われ、自分の感性に蓋をして受動的に読み取ろうとだけするのはもったいないことです。作品になにが描かれているのか、というだけでなく、その作品と出会った自分の内的な反応や変容に耳をすませてみましょう。
鑑賞には唯一の正解はありません。見る人それぞれのうちに立ち上がるユニークな体験です。そしてそうした鑑賞は、あなたなりの世界の捉え方を作品に付与する創造的な行為として、作品をさらに豊かにするのです。
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