見出し画像

なんでもオンラインで解決できるわけじゃない【直に感じることの重要性】

コロナによって、相変わらずいろいろな行動が自粛を余儀なくされています。個人的にはいつまで続ける気なのか?と疑問しかありませんが、それはおいておいて、就活においても様々な問題が露見してきているようです。

学生のみなさん、大変だろうと思います。

就活に限らず、そもそも人と人とのつながりというものは「直接会って、とことん話して、何かを感じ合う」というものだったはずです。それがコロナで制限されているのが現状です。記事では最後が「わかり合う」となっていましたが、僕は「わかり合う」ことが必要ではないし、目的でもないと思います。

オンラインでも情報や思考を伝達し、知らせることは可能です。しかし、それはそれ以上のものにはならないし、本当に伝達されているのかも怪しいものです。

そもそも、コミュニケーションというものを誤解している人が多いように思います。コミュニケーションとは情報や思考の伝達ではない。ましてや、意思の疎通でも互いの理解の為にやるのでもない。コミュニケーションを「わかり合う」ためにやるものだ、なんて誤解している人が、実は真のコミュ障なんだと思うわけです。

そう簡単に「わかり合える」わけなんてない。大体の多くのコミュニケーションは「互いにわかり合えないことがあることがわかる」ということです。

「共感こそ大事だよね! 」なんて思っている人は、残念ながらコミュニケーション的な「対話」ができていないんじゃないか、と。他人の言ってる事を丸ごと「そうだよね、そうだよね」なんて取り入れている行動は、「吸収」であって「対話」じゃない。心の中ではちっとも「そうだよね」と思っていないくせに、そういう態度で聞く姿勢は、まさしく「馬耳東風」です。

対話とは、何かしら違和感を発見することです。「噛み合わない」というものを互いに感じることです。相手の言ってることと共通する点を見出すより、どこが違うのかを知覚することです。そして、大体は「似ているようでいて違ってる部分がある」はずです。そうした違和感を感じ、自分の中に取り入れるか吐き出すかを選択することが対話のもっとも大事な点です。

違和感はある意味、摩擦です。痛い事もあるかもしれません。痛ければそこに不快な感情も沸き起こるかもしれません。でも、そうした感情の擦り合わせ(摩擦)そのものが対話であり、コミュニケーションであり、そのプロセスを楽しめるのがコミュ力なんじゃないかと思います。決して同意や共感は目的ではない。

同意や共感を目的化してしまうと、違和感や考え方の相違は認められなくなります。度を超すと、相手に対して「それは間違っている」という不快さばかりで脳が支配されてしまいます。相手が間違っているのに、それに同調してしまうことは、自分が間違っている側に取り込まれることで、それは尋常じゃないくらい不快になります。すると、どうなるか?徹底的に相手に対して、間違いであることを指摘し、屈服させようとします。

それ、対話ですか?違いますよね。

オンラインだけで話をすると、どうしてもそういう心理状態になりがちです。

なぜでしょう。

それは、直接ではないからです。「直に」ではないからです。映像など画面を通じて、相手と話しているからです。

いやいや、映像だって話している内容は同じだし、関係ないと思いますか?


では、実際に、コロナ前、直に向き合って誰かと話をしていた頃を思い出してみてください。会話の内容だけじゃなく、相手の視線、相手の息使い、相手の匂い、複数人で向き合っているとしたら、その人数分のそれらの感覚を感じながら話をしていたのではないでしょうか?

それを「空気」と言ってもいいと思います。

大正から昭和期にかけて、活動し、民藝運動を起こした思想家、宗教哲学者でもある柳宗悦の言葉に「直に見ることが大切だ」というものがあります。知ることだけでは近づけない、直に感じることの重要性です。

陶器でも仏像でも寺でも屋久島でもなんでもいいんですけど、直にそれを見たり、触ったり、空気を感じることって、写真や映像とは全然違ったという印象を持ったことはあると思います。

人間も同じです。たとえば、テレビの中でいつも見ている芸能人に、偶然どこで出会ったとしましょう。その人が好きか嫌いかは置いておくとして、テレビで見るのとは違った印象を持つことも多いものです。プラスにしろ、マイナスにしろ。

テレビでいつも拝見していた壇蜜さんと直接お会いして、お話ができた時など、僕は柳宗悦さんのいうことを痛烈に思い知りました。

「直に見る」とはそれほど違う体験なのです。

「色眼鏡で見てはいけない」とよく言いますね?あれは、あれこそ「直に見ろ」のススメでもあり、変なフィルター通して物や人を判断してはいけないということです。眼鏡という一枚のフィルターとは、自分の知識や経験によって生み出された偏見や先入観です。残念ながら、人間とは無意識にそういうものを通して、物事を判断しがちです。

違和感は大事だけど、一枚の写真だけを見て、違和感を単なる個人的な不快感としか結び付けられず、自分の偏見だけで記事を書くとこういうことになります。

政治家をその為した仕事において評価・批判するのはどんどんやっていいと思いますが、公人とはいえ、プライベートな夫婦の関係性に踏み込んで、自分の勝手な妄想や思い込みで否定や糾弾をしてしまうのは、もはやヘイトスピーチと変わらない。


閑話休題。「直に感じる」のと「映像というフィルターを通して知る」のとでは、圧倒的に情報量が違います。「知る」ことはできても、それは「感じた」ことにはならない。前述した通り、「直に感じる」とは五感すべてを使って感じるものだからです。

就活の面接など、大人数を一日で見なきゃいけない場合、採用官が大事にすることは、第一印象が多いのです。その後の話は補足であって本質ではない。「この学生と一緒に仕事したいか。部下にしたいか」という感じ方は、大体最初の直観で決まります。それは視覚だけではなく、声も匂いも雰囲気もすべて、その学生が触れた空気を通じて、いろいろ膨大な情報から「自分とは少し違う何かしらの違和感を感じる」のですよ。

違和感のない相手は印象にすら残りません。

それは、採用だけではなく、通常の仕事で初対面で会った取引相手でも同じだし、恋愛においても同様かもしれません。

そうした対面と対話を制限されている中で、「コロナ禍でもオンラインで打ち合わせもできるから問題ないよね」なんて軽く考えている人がいるとしたら大きな間違いでしょう。仕事も就活も婚活も、です。むしろ、オンラインなんかじゃ解決できない問題の方が多いのです。

どれだけオンライン上での友達が多くても、結局いつも一緒に酒を飲みあうような友達以上にはなれない。今年入学した大学生が、同級生と一度も直接会うことが出来ず、孤独感を覚えてるのもそういうことでしょう。

「対面して直に感じ合う」、つまり「臨場感」以上のコミュニケ―ションはないのです。ツイッター上でわけのわからないクソリブが来るのは、臨場していないからです。

つまり、突き詰めると、人間のコミュニケーションとは、対面して空気を通じて、互いのウイルスを相手の体内に潜入させ合う作業なのかもしれません。違和感とはウイルスなのです。そのウイルスを体内に取り込み、自分の中の免疫や抗体が反応すること、それが自分が成長するってことなのでしょう。

その最たるものが愛する人とのキスであり、セックスで、まさに直接的に粘膜を通してウイルスのやりとりをしているようなものです。そう考えれば、仕事上でおじさんと打ち合わせしていることも「エア・キス」のようなものです。


いいなと思ったら応援しよう!

荒川和久/独身研究家・コラムニスト
長年の会社勤めを辞めて、文筆家として独立しました。これからは、皆さまの支援が直接生活費になります。なにとぞサポートいただけると大変助かります。よろしくお願いします。