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危機を救うのはヒーローではなく、いつもと変わらない僕らの行動そのもの

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東日本大震災から丸9年。発生時刻の午後2時46分を過ぎたころ、宮城県名取市の震災メモリアル公園上空に、大きな虹がかかった。見上げた女性は犠牲者を思い、「こうやって渡ってきてくれたんだね」とつぶやいた。(2020/3/11神戸新聞NEXT)

今日は3月11日。9年前に、あの東日本大震災が起きた日です。あの瞬間の事は今でも鮮明に覚えていますし、毎年今日という日が来れば自動的に思い出します。が、それは今日が3.11だからであって、通常はもう震災のことを思い出すことはありません。それは、自分が被災地の人間ではないからでしょう。しかし、9年たった今でもなお、福島県を中心に、現在も約4万7千人が避難を続けているそうです。被災者の人々にとって、震災は決して過去のものではない。

ですが、今年はちょっと例年と違う思いを新たにしました。

2020年の世界は、地震や津波ではなく新型コロナウイルスによって、あの時と同じようなある種の国民総自粛ムードが蔓延しています。仕事も学校も行かず、イベントや催し事は中止となりました。まあ、そこまではウイルス対策という性質上致し方ないのかなとは思います。しかし、今起きているのは、それ以上に、「人間が恐怖の不快感によって、人間を攻撃する」というわけのわからない状況が発生していることです。

たとえば、電車内でマスクをしているしていないくらいの些細な問題で人々が怒鳴り合ったり、椎名林檎率いる東京事変のコンサート決行や、宝塚劇場の公演再会などに対して、尋常ではない量のバッシングが浴びせかけられ、双方とも結局中止に追い込まれました。

今日もまた、春の選抜高校野球も正式に中止と決定されました。当初、無観客試合でも開催するといっていたのに急遽中止となったのも、世間の厳しいバッシングの声の影響が大きかっただろうと推測します。

選抜大会反対派の意見の中には「サッカーもラグビーも中止しているのだから野球だけやるのはおかしい」というのがある。なんでしょう、この足の引っ張りあい。我慢や辛抱の押し付け合い。皆で一緒に苦しみましょうという変な思想。

新型コロナウイルスに感染しないよう、個人単位で手洗い・うがい・マスク着用など励行するのはいいと思います。しかし、今起きているのは、「人に迷惑かけるな」という過剰反応の応酬です。マスクしていない人を攻撃するのも、コンサート開催を非難するのも、そういう場所に行く客を犯罪者のようにバッシングするのも。

「迷惑かけるな」という言葉は結局、人に「行動するな」を強制するものです。しかし果たしてそれが本当に迷惑なのかを考えてみてほしいと思います。もっと言えば、人は迷惑をかけてはいけないのか?という問いでもあります。

勿論、ウイルスを軽視してはいません。しかし、オープンな野球場で、それなりの消毒体制、取材ルールなどを規制すれば、感染のリスクはかなり軽減されたのではないでしょうか。今更言っても無意味ですが。

決して高校野球ファンではないので、そういう視点で言っているのではありません。球児たちが可哀相だからという感情論でもありません。東京事変や宝塚は仕方ないにしても、野球は本当に中止しないといけない問題だったのでしょうか?という話です。

東京マラソンと何が違うのでしょうか?宿泊の問題とかいろいろあるというご指摘もあります。子どもたちの安全を考えたら中止の決断をするのが大人だ…などと説教する人もいますが、子どもたちは感染しても圧倒的に重篤化はしないと専門家が言っています(医者じゃないんで真偽不明)。むしろ大人たちが知恵を出すべきは「どうしたら実施できるか」の方であり、「開催したら責任とらされるのが嫌だから中止」というのが透けて見えるようでは、それこそ大人として恥ではないのか?




9年前あの震災直後でも、春の選抜は開催されました。丁度1995年阪神大震災の時に生まれた子どもたちが出場する大会でした。

その時の創志学園(岡山)野山慎介選手の宣誓はとても素晴らしかった。

宣誓。私たちは16年前、阪神・淡路大震災の年に生まれました。今、東日本大震災で多くの尊い命が奪われ、私たちの心は悲しみでいっぱいです。被災地では、全ての方々が一丸となり、仲間とともに頑張っておられます。人は仲間に支えられることで、大きな困難を乗り越えることが出来ると信じています。私たちに今、出来ること。それはこの大会を精いっぱい元気を出して戦うことです。「頑張ろう! 日本」。生かされている命に感謝し、全身全霊で、正々堂々とプレーすることを誓います。



自分達が今、出来ることを精いっぱい元気を出してやること。


震災時でも今でも私たちが心がけ行動しなければいけないことってそういうことじゃないでしょうか。

在宅勤務しろと言われてできる人はまだいいです。しかし、ほとんどの仕事は現場に入って、人間が手足を動かし、汗をかいて行う仕事であふれています。工場で物を作っている人も、それをトラックで運ぶ人も、それを店頭ら並べて販売する人も、もちろん病院で医療に携わる人も。農業も漁業も。大部分の人間は、コロナがあろうがあるまいが外へ出て働いているんです。

そんな名も知らぬ誰かの働きによって、僕たちは今日も生かされているわけです。


震災3日後の2011年3月14日に、僕自身がブログに書いたことがあります。以下ご紹介します。僕の母の話です。

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うちの実家は東北にほど近い北関東の田舎にあります。幸い内陸で津波の心配はありません。父は既に他界していて、母は一人で暮らしています。

地震後、なかなか連絡がつきませんでしたが、12日土曜の夜にやっと携帯が通じました。

本人に怪我はなかったようですが、それでも箪笥や食器棚などが倒れたりして結構家の中はぐちゃぐちゃになったそうです。

年老いた母親ひとりでは後片付けも大変だろうと、仕事休んで片付けの手伝いに行こうかと持ちかけると母は僕にこう言いました。

「東北の人たちがあんな大変な目に合っているのに
なんでもねえあんたが仕事休むなんて
罰当たりなことすんな。
いつも通り仕事をしなきゃ駄目だぁ」



さすが昭和の母です。

僕らは、ひとりひとりは無力かもしれない。

でも、ひとりひとりができることをひとつひとつを積み上げれば、それは一億倍になって返ってくる。

電気を消すこと1円でもいいから募金すること。すぐできることをやればいいのだ。

そして、地震の被災地の方のためにも、僕らは普段通り自分の生活をしていこう。


仕事しよう。
行動しよう。

テレビの前で地震のニュースばかり見て何もしないでいたり、重箱の隅つつくように誰かの批判をしているだけより、よっぽど価値があるし、意味がある。

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結局あの時も自粛すべき派とすべきじゃない派がふたつに分断して対立していたんだなあ。

あの時、確かに日本中が自粛ムードの中に包まれていました。そんな閉塞した空気の中で書いた思いです。震災とウイルスの危機とを同列に扱うことはできませんが、危機に直面した時、僕らを救うのは、名も知れない大勢の人達の、いつもと変わらない仕事や行動なんじゃないかと思うんです。

僕らは僕らのやるべきことを全員が粛々とやることしかできない。けど、それだけで、結果誰かのためになっている。迷惑をかけてしまう相手もいるかもしれない。でも、救われる人もいるんです。あなたの行動はそれだけでも価値があることなんです。理由をつけて行動しないのは簡単です。でも、行動した人たちがいるから、僕たちが生きていられることは忘れないでいたいと思います。

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荒川和久/独身研究家・コラムニスト
長年の会社勤めを辞めて、文筆家として独立しました。これからは、皆さまの支援が直接生活費になります。なにとぞサポートいただけると大変助かります。よろしくお願いします。