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社会を硬直化させる「ゼロサム」の呪縛と「競争」原理

お疲れさまです。uni'que若宮です。

今日は「ゼロサム」ということについて考えてみたいと思います。


「ゼロサム」ゲーム

ゼロサムというのは、ゲーム理論のことばで、各プレイヤーの得点(利益)と失点(損失)をすべて足すと総和(サム)が「0」(ゼロ)になるゲームのことです。

「ゼロサム」ではないものには「プラスサム」と「マイナスサム」のゲームがあります。

「勝負」という言葉は基本的にゼロサム的な考え方です。どちらかが勝てばどちらかが負けます。しかし社会は必ずしも「勝ち」or「負け」になるわけではありません。切磋琢磨して「協創」しつつ価値が高まっていくあり方もあります。たとえば「勝ち負け」が目指される代表のように思えるスポーツにおいても、先日のオリンピックでのスケートボードのような試合は、「プラスサム」なスポーツのあり方と言えるのではないでしょうか。

競技で新たなスポーツの価値観を示したことが今大会の特徴だ。スケートボードやサーフィンで選手がライバルにアドバイスをしたり、新しい技を隠さずにSNS(交流サイト)で公開したり、これまでにないことが起きていた。
五輪は国別対抗の色合いが強く、手の内を明かさないというのが当たり前だった。この既存の価値観を変えていくだろう。(為末大さんのコメントより)


「ゼロサム」が社会の変化を阻害する

たとえばジェンダーギャップの是正が遅々として進まないことの一因にも、こうした「ゼロサム」的な発想がある気がします。

そもそも、企業としてはできるだけ多くの社員が能力を十分に発揮したほうがいいはずで、そのための(育児をしながらでも働きやすい、とか夫の転勤についていかなくてもよい、とか)環境整備は、「女性のため」とかではなく、仕組みのアップデートとしてマネジメントで取り組むべき課題なはずです。しかしここに「女性ばかりを優遇するのか」と言ったような話が出てくる。

一社の中で「昇進(上)」を目指す20世紀的なキャリアの価値観では、上に行くほど席の数が減り、熾烈な椅子取り合戦になります。「椅子取り合戦」では椅子の数は決まっています。女性の席が一つ増えるということは、もし「ゼロサム」であれば男性の席が減ることになるのです。

また、(スタートアップで「成長はすべてを癒す」とよく言われるように)企業の売上や利益が右肩あがりに伸びているときは良いですが、停滞し始めると年収の額もまた「ゼロサム」ゲームになります。

そして、こうした「ゼロサム」下で「競争」原理が働くと、組織や社会は変化できなくなり、硬直化するのです。「競争」は一見変化を加速するように思われるのに、皮肉な逆説が起こります。


なぜなら、ゼロサムにおいては基本的に、新しいプレーヤーの立場が大きくなるということはすなわち古参プレーヤーの取り分が減ることを意味するからです。すると(現状上位におり、ゲームルールをつくれる立場にいる)古参の強者は、自分たちに有利なルールをつくりはじめます。結果として占有が起こり、強いものはますます強くなり自分たちの立場を強固にし、他の人たちがその地位を脅かせないようにします。「能力主義」が平等の免罪符として出されますが、実態としては「自分たち以外に能力を発揮させない仕組み」が作られ、「非対称なルールの中でフィルターで歪まされた能力」なのです。(↓のイラストの「REALITY」)

しかし、これをゼロサムではなく、「プラスサムゲーム」と考えたらどうでしょうか?能力がある人が十分に能力を発揮できていないとしたら、それは単純に機会損失です。能力をそれぞれがより発揮することができれば、その分全体としての価値や利益が増えることになります。経営者としてなすべきことは「ゼロサム」のままで女性の能力を阻害しているより、活躍によって価値を増やすことではないでしょうか。


「ズルい」足を引っ張るマインドセットが「ゼロサム」を「マイナスサム」にする

また、これは必ずしも経営者や「強者」だけのせいではありません。

たとえば誰かがなにかを変えよう、と声を挙げたとします。そうすると「自分だけ」「ズルい」という同じレイヤーからの「待った」がかかります。

これはジェンダーに限ったことではありません。昨年から文化庁の補助金の課題点について声をあげているのですが、

こうした声をあげていても、「自分たちを優遇しろっていうんですか?こんな声を挙げている暇があったら黙ってルールに準じてやったら?」という声や「大変なのは文化芸術だけじゃないだろ、税金もらうのに贅沢いうな」とかいう声が飛んできます。

自分たちの優遇を求めているのではなく、問題がある制度の改善を訴えているだけなのに、です。こうして変化のための声がmuteされてしまいます。

こうした「ズルい」という感情の裏にも「ゼロサムの呪縛」が潜んでいる気がします。誰か困っている人が声をあげ、それが通ると「自分が損する」と感じるわけです。

企業においても、競争や評価制度が生産性を高めると考えられてきましたが、ゼロサム的閉塞の中で競争が行われると、足の引っ張り合いが起こったり、組織の透明性が失われ、かえって生産性が低下します。有利な情報をみんなで共有するより、自分だけが情報を持っているほうが「有利」だからです。

こうしたことをやっているうちに、ゲームはゼロサムどころかマイナスサムになってしまいます。「ズルい」という感情が互いに不要な監視を増やし、不毛な手続きが増えます。(文化庁AFFも「不正受給」を避けるための手続きが、事務局と多くの事業者に無駄な稼働を増やしてしまい、マイナスサムになった事例でしょう)

お互いに足を引っ張りあったり、情報の共有が阻害され、それぞれのメンバーがそもそもの能力を発揮できなくなり、全体の価値が低下している。いまの日本はそういう状況にある気がします。


「プラスサム」の鍵は「多元化」と「共有」

ではどうしたら「ゼロサム」「マイナスサム」を「プラスサム」にすることができるでしょうか?

ポイントは「多元化」と「共有」ではないか、という気がします。

たとえばこれからの時代、一つの企業において昭和の時代のように年功序列的に年収が上がっていくことを期待するのはほとんど不可能でしょう。一社のゼロサムの中で競争し合い足を引っ張りあった結果マイナスサムになるのではなく、複業などによって別の場所でも価値創出をするほうが健全です。

また、「サム」されるのは必ずしも経済的な価値だけとは限らない、と考えることも重要です。たとえばA社とB社が取引をした際、お金だけをみればA社からB社に移動しただけのゼロサムですが、ノウハウの共有やコラボレーションによる新たな価値創出、関係構築のような直接お金ではない価値も生まれています。このように価値を「多元化」してプラスサムとして捉えることができなければ、GDPの下がっていく日本では「足の引っ張り合いによるマイナスサム」による悪循環が続いてしまいます。

あるいはまた、「共有」もある価値をN倍化するプラスサム効果のヒントでしょう。既に起こりつつあることですが、共有社会においては目に見えるGDPのような経済指標は下がっていっても、価値は増える、ということが起こります。たとえば一台の車を3世帯でシェアすれば、車の売り上げは3分の1になります。しかしこれは一台の車が生み出す価値が3倍になっているともいえます。


ゼロサムからプラスサムに価値のシステムをアップデートする。そうすると競争は「奪い合い」ではなくなり、価値が増えます。資本主義の自由競争の原理は、ゼロサム下では二極化や分断を生み、かえって社会を固定化してしまうというマイナス効果があることがわかってきました。

そうしたシステムのバグに対し「ここはおかしいのでは?」「直そうよ」というと「逆差別だ」とか「ワガママ」という声があがります。ゼロサムで考えれば自分の今の立場が危うくなる気もするので、現状維持を望む気持ちもわからなくはありません。しかし、それをしているうちに全体の価値は消耗されてすり減っているのです。船内で椅子取りゲームにやっきになっているうちに、船全体が沈みかけている。そうこうしているうちに社会は「プラスサム」だと信じることができる新興国にどんどん抜かれていってしまいます。

みんなで「プラスサム」な世の中を目指してシステムをアップデートしていきませんか。


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