大富豪の出版人の生涯から考えることー『フェルトリネッリ イタリアの革命的出版社』を読む。
頭や心だけでなく、身体も揺さぶられる本というのもそうないです。
カルロ・フェルトリネッリの『フェルトリネッリ イタリアの革命的出版社』を読み終わってすぐ、ミラノ共同記念墓地にあるフェルトリネッリの墓に足を運んだーーというのは、ぼくにとって初めての経験かもしれません。
本の最後に著者が出版社の創業者である父親の眠る墓地について書いているのを読んで、ぼくはその感覚を「身体的に」確認したくなったのです。著者は1972年に亡くなった父親の墓地について、次のように書いています。
「鉄塔を爆破しようとしてミラノ近くでテロリスト死す」と日刊紙、コリエーレ・デッラ・セーラに書かれた大富豪の出版人、ジャンジャコモ・フェルトリネッリの死は、半世紀を越えていまだに多くの謎に包まれたままです。
それはさておき、なぜ、著者が墓地の選択で後悔したのかを実感するのは、この本の理解の要だろうと思ったのです。
この本のレビューとして、あれやこれやと思ったことをメモします。歴史を知る意味、起業家の情熱のありか、極端に走る人の心情、などなどです。最後に墓地で身体的に感じたことも書いておきます。
フェルトリネッリという出版社
フェルトリネッリは19世紀後半以降に多大な富を築けあげた大財閥です。
イタリア国内、オーストリア、ギリシャの鉄道の枕木を供給するなどして木材業で莫大な財産を築き、電力、銀行、繊維、化学、運輸、建設、不動産などの国内外の企業を傘下においたイタリアのトップ企業グループの一つです。
この立ち役者のジャコモ・フェルトリネッリ(1829-1913)の孫がカルロ・フェルトリネッリ(1881-1935)でグループをさらに拡大させたのです。そのカルロの息子が出版社を1955年につくったジャンジャコモ(1936-1972)で本書の主人公です。そして、カルロの孫でジャンジャコモの息子であるカルロ(1962-)が筆者です。
1942年、16歳だったジャンジャコモはファシズムと闘うことを心に決め、1945年、共産党に入党、1948年、フェルトリネッリ研究所設立、1954年、出版業に足を踏み入れます。
本書が内務省機密局の記録、グラムシ研究財団の内部記録、ワシントン、モスクワ、ベルリン、アテネの公文書館にある資料(祖父カルロの文書は国立公文書館)に基づいているところから推察できるように、そうとうに「公的権力組織に行動を見張られていた」ことが分かります。
それだけ大富豪の政治関連活動は危険と見なされていたのです(実際、1960年代「フェルトリネッリはカストロの欧州における思想的代理人」のようにも言われていました)。
この出版社が世界的に注目されたのは、ロシアの作家、バステルナークがロシア革命時を舞台にした恋愛小説『ドクトル・ジバゴ』を他言語に先駆けて出版して大ヒットしたからです。反ソを促すと案じたソ連政府は国内での出版を許可せず、作家は文字通り自らの生命を賭けてフェルトリネッリに海外版権をすべて託したのでした。
しかし、ソ連やイタリア共産党のさまざまな諜報活動や横やりがあり、そうして作家との信頼関係も危ぶまれたなか、フェルトリネッリは時にスマートに、時に泥臭くことを進めたのです(後に、映画化にも関わり、この映画は『アラビアのロレンス』『戦場に架ける橋』などを手掛けたデヴィッド・リーンが監督。「ララのテーマ」のヒットと重なり、映画は観客動員数約1億2400万人、2022年現在で歴代8位)。
これもヴィスコンティ監督でバート・ランカスターやアラン・ドロンが演じる映画になってヒットした小説ですが、ジュゼッペ・ランペドゥーザ『山猫』もフェルトリネッリ出版の名を知らしめるに貢献しています。また、フェデル・カストロの本に見られるように、その時代の社会や文化の理解に求められる情報や視点を提供することに力を注ぎます。
創業者亡き後、この出版社がイタリア内の売り上げでトップ3内の位置にありますが、現在に至ってもユニークなのは、アマゾンが席巻する前、つまり1990年代後半にデジタル本を手掛け(後に撤退)するような先進性だけでなく、本の流通関連企業をもち、しかも三桁の数で直営の書店を全国に配し、そこにはバール機能があります。これにより、同業の他出版社や読者の動向を前線でリアルタイムに知ることができるのです。
1965年、ローマの書店にピンボールやジュークボックスを置き、高校生たちがそこで踊るというシーンが展開されたのもジャンジャコモの意向でした。それだけではありません。図書館を有し、そこは自由に読書や学習に使えるようになっています。
図書館をつくった動機に目をむける
この図書館は出版社の前に設立されたものですが、その動機には歴史を知る意味が深くかかわっています。
勉学は学校に行かずすべて家庭教師に教わっていたジャンジャコモが、10代のはじめ、世の中には2種類の社会階級があるのを初めて知ります。実家の広大な庭園を整備する数々の労働者と話したのです。1936-39年、ちょうど戦争が深刻な脅威となった頃です。24歳のとき、彼は共産党の地区学校の授業に参加するに際し自叙伝体の略歴を提出しましたが、以下はその一部で、10代はじめの経験をしるしています。
彼はレジスタンス運動に関わる人間と対話を重ね、さまざまな書籍をむさぼるように読む一方、1944年にアメリカ第5軍に志願入隊して前線にもでむきます。また、1945年には共産党にも入党します。反ファシズムの具体的行動拠点として共産党が「ベター」な時代だったのです。
そして、1948年以降、ジャンジャコモは党の「主要出資者」になります。
レジスタンスの金メダルを獲得したジョヴァンニ・ペッシェがジャンジャコモと最初に会ったときのことを次のように回想しています。
こうした想いと疑問から、ジャンジャコモと右腕のデル・ポーは次のような目標を設定するのです。
これが30万冊以上、定期刊行物が3万冊以上あり、フランスの『百科全書』をはじめとする啓蒙思想の初版本、ロシアの人民主義、イギリスの産業主義、スペイン内戦、仏独英の理想主義の本などを保存する動機だったのです。
戦争、焚書、検閲を免れたすべての資料を体系的に統合すべく、図書館の実質的なストラクチャーができたのが1950-1952年です。
その頃、モスクワのマルクス=レーニン主義研究所や、やはり膨大な資料を保管していたアムステルダム研究所もフェルトリネッリ図書館の蔵書の中身を探るようになります。例えば、マルクス及び彼の家族とエンゲルスの往復書簡がモスクワにはなく、ミラノにあったことになります。
歴史を知ることにより現在の問題への立ち向かい方が見えてくるーーこういう姿勢がジャンジャコモにあり、この延長線上に出版社が設立されたと分かると、出版社の趣旨が自ず明快になります。
起業家としての新しい顔
ジャンジャコモは大企業の経営をみながら、前述のような道を選んできました。その彼が、今度は出版業という世界に「新米」として足を踏み入れたのですが、最初の2冊がラッセル卿『人工地獄:ナチス戦争犯罪小史』、ジャワハル・ネール『自叙伝』です。
この本の選択にジャンジャコモは1960年代半ばのテレビのインタビューで次のように説明しています。
彼の歩んできた道からすると、当然とも言うべき、選択です。フェルトリネッリ出版は、イタリアの書き手からよりも海外の書き手から受け取る原稿の方が多い、と形容されるぐらい全方向に注意を払っていました。
そして「ドクトル・ジバゴ』の例にみるように、イタリア語圏を起点に多他言語圏への発信を同時に試み、物理的にも広い地域への影響力を発揮したのです。
出版社設立の前に、ジャンジャコモは外国の一流の出版社の本を輸入する流通会社を設立しており(1952年)、直営店を経営する会社は出版社を設立した翌年(1956年)にできています。
即ち、全体を繋ぐ一つの「回路」を作り出そうとしていたわけですが、この回路とは物理的回路だけではなくインターナショナルな知的情報の回路の構築を視野に入れていたのが明らかです。
世の常ながら、大富豪の出版起業は即躓くだろうと見る人が多かったのですが、そうはならなかったーージャンジャコモが家業の世界で経営経験を積んでいたのもありますが、次の彼の発言には納得がいきます。1960年代初めのインタビューの場です。
出版人にとどまらない幅広い人たちの交流が国際的にあり、テーマを多角的におさえる情報が(図書館に)体系的に手元にあり、それらをベースにした動ける組織(流通や直営店)があり、世界の変化に(同業他社と比べ)より狙いを定めて立ち向かえる準備を整えていたーーよって出版社の経営を軌道にのせることができたーーとなります。
極端な方向に振りはじめる
ジャンジャコモは50年代後半には共産党を離党しましたが、その後も政治の世界とのつきあいは続きます。
キューバのカストロとの交流は、最初はカストロの回想録の出版狙いでした。これも『ドクトル・ジバゴ』に並ぶような国際的大ヒットとなるのですが、カストロに関する第一印象のメモはなかなか目をひきます。
ジャンジャコモの真骨頂とも言うべき感想です。国の運営と企業の運営の違いを分かっていない政治家とビジネスパーソンにウンザリするほどに出逢ってきたのでしょう。そうしたら、「あのカストロ」も同類だと気づいたのです。米国の企業経営を強烈に皮肉っているとも解釈できます。
それが徐々に変わり始めるのです。1967年、ジャンジャコモは64年と65年のキューバ訪問について、次のようにインタビューで答えています。
日々の生活が、なんらかの大きな概念のもとで送られているわけではないので、当然といえば当然です。逆に、1960年代、それだけお決まりの枠組みやイデオロギーの「前のめり」が前提になっていたと思われます。
そこから一歩踏み出るきっけかをジャンジャコモはキューバや、その後の南米の動きのなかで得たーーそして1968年の世界的な学生を中心とした運動、新しい方向が見えない行き詰まり感が左翼には極左の台頭を促していくなかで、イタリアでは要人の誘拐や爆破事件が増えていったのです。「テロの時代」のはじまりです。
そして、ジャンジャコモはこれらの暴力的な手段の実行への何らかの関与が疑われ、偽名を使った身分証明書で潜伏生活をせざるを得なくなり、1972年、ミラノの郊外にある鉄塔で遺体が発見されるーーその結果、冒頭に紹介した墓地に40代半ばで眠ることになりました。
晩年、近しい人たちからも「彼は昔の彼ではない」と言われながら、表向きは出版ビジネスから離れ、どんどんと周囲の人たちからは理解されずらい行動を繰り返します。あることを突き詰めるときに「必然のように生じる」極端への振りを「真剣さの表れ」ととるか、あるいは「誘惑に勝てなかった」と評するのか、本書は人のジレンマをとても立体的に表現してくれています。
墓地について考える
本書は1999年に出版された”Senior Service”オリジナル・イタリア語版の英語版をベースに日本語になっているものです。2022年、イタリア語の最新版が出ており、最初のバージョンからおよそ20年を経ての本書のもつ意味が再考されています。
オリジナル書名の"Senior Service"とは、ジャンジャコモがよく吸っていた英国のタバコの名前からつけたものです。日本語書名がジャンジャコモの苗字(=出版社名)に「イタリアの革命的出版社」とついているのは、日本でこの出版社を知っている人が多くないからでしょう。
「革命的」とは2つの意味がダブっていると思われます。一つ目は従来の枠を大きく変えるイノベーティブな出版社であること、2つ目は革命を希求する人たちがうごめいていた時代にその実現を目指した人が創業した出版社であったこと、です。
さて、息子のカルロが墓地の選択に後悔したという墓の前に立ってのぼくの感想です。
フェルトリネッリ一族は19世紀後半から20世紀前半、産業革命によって生じた産業構造の変化のなかで莫大な財産を築きました。形式的であったからかどうは分かりませんが、政府と歩調をとり、時には政府の管轄下にある企業のトップをつとめていたーージャンジャコモからすれば「ファシズムの片棒を担いだ」恩恵を存分に受けた一族です。
財産を背負った重責を担いながら、そこから懸命に脱して、その財産を新しい社会のために注ぎ込んだのがジャンジャコモです。しかし、最後には多くの人から「あいつは外れた」としか見られない人生の終わり方だったのです。
ジャンジャコモの息子からすれば、父親の先駆的な動きを後の世の人々の記憶として残して欲しいと願うはずです。しかしながら、あの立派な一族の墓で先祖と一緒になると「あの一族もああいうお坊ちゃんでめちゃくちゃになった」と見られる可能性が高くなります。
一族の墓とは、そういうさまざまな評価をマルっと収めてしまう場だからこそ良いとも言えますが、このようなシステムが今後の社会でも機能するかどうかは考え時です。
冒頭の写真は、フェルトリネッリ財団、出版社、図書館などが入るビルです。上階が三角形なのが特徴で、一番奥の方がフェルトリネッリ、手前側にマイクロソフト・イタリアの本社が入っています。
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