見出し画像

ダイバーシティや創造性のためにはenlightenだけじゃなくendarkenもだいじなんじゃないんだろうかという話

お疲れさまです、uni'que若宮です。

この週末、沖縄に出張してまいりました(コロナ禍で登壇がほぼオンラインか延期になる中、実に9ヶ月ぶりの出張でした)。某企業の研修合宿にお呼ばれしてダイバーシティの講演をしたり、「アンテルーム那覇」という鬼素敵ホテルでアート思考のワークショップをしたりしました。この2つを設計するに当たり考えていたこととして「endarken」ということがあったので今日はその話を書きます。


見えるもの、見えないもの

ダイバーシティについてはこんな話をしました。

画像2

ダイバーシティの問題には「見えないもの」がある。だから、大事なのは想像力です。

「啓発」という言葉があります。英語では「enlighten」と言います。見えていないところに「光」を当てる、ということですね。

もちろんこれは大事です。「知る」ことは行動を変える第一歩だからです。ただ、「知る」ことで十分かというと必ずしもそうではないのではないでしょうか。「光」や「明るさ」によってみえるのは、ものの「表面」だけであったり、あるいは陽の光に目が眩むようにすぐ隣にある「はっきりしないなにか」を見えなくしてしまうこともあるからです。


先日、ダイアログ・イン・ザ・ダークのダイバーシティラボ・首席研究員の檜山晃(ひやまっち)さんのお話を伺うことがありました。

その時ひやまっちさんはこんなことをおっしゃっていました。(筆者の記憶なので言い回しは正確ではないかもしれませんがご容赦ください)

「ダイアログ・イン・ザ・ダークに晴眼者の方が来ると、最初のうち、盲のスタッフとどう接していいか戸惑う方もいます。でも真っ暗なところにいってしばらくすると、そこに境界がなくなるんですね。見える/見えないという境がなくなり一気に打ち解けて深くつながる感じがあるんです」

これを聞いて僕は「あ、すごいわかる」と思いました。そしてそれはある種、アートに触れる時の感覚とも似ているとも感じました。

ダイバーシティのことに関しても、知識をつけ「啓蒙するenlighten」ことはたしかに大事です。けれども、理屈や知識だけでは芯からは身体や感情は動かない、という感覚もあります。あるいは光の中では分かれてしまうものが、暗闇の中でこそつながれることもある、と。こういう一体感にはenlightenだけでなく、ときにはendarkenすることも大事ではないかと。

そんなわけで、目を閉じて不安になってもらうようなワークを入れたりしましたw

画像8

ワークショップやセミナーをする時、僕は「モヤモヤを残して終わる」ということを心がけているのですが、それもenlightenしすぎない、ということから来ている気がします。「わかった!」「スッキリ!」となるのは気持ちがいいものですが、研修時間が快感値のMAXになってしまい、翌日になると忘れてしまう。でもモヤモヤした葛藤や不安をもって終わることで身体に残り、自分の頭で考え続けるちいさな火種になると思うのです。


「異化」と「脱・視覚偏重」

翌土曜には、旅のサブスク・HafHさんからお誘いいただいてアンテルーム那覇でアート思考のワークショップをしました。

ここでも、実は「endarken」を裏テーマにおいていました。

アンテルーム那覇は、名和晃平さん率いる〈SANDWICH〉がアートディレクションをしていて、入口を入るとやんツーさんの作品がどーんとあり、

画像6

1F、2Fがアートギャラリーになっています。

画像7

せっかくアート作品がたくさんある場所なので作品を鑑賞するワークをしてもよいのですが、(ホテル主催のギャラリーツアーもあるということだったので)作品に「スポットライト」を当てるのではなく、「見えないもの」を感じてほしかった。


そこでこんなお題を。ポイントは2つ。

1)アート作品がたくさんあるアンテルームだからこそ、「図」としての作品にではなく、「地」として見えなくなっている「空間自体」に身体を浸し、豊かに感じてもらうこと

2)視覚より聴覚や嗅覚、触覚へと体感の重心を落とすこと

画像4

1)の方は「異化」がポイントです。私たちは実は、日常生活の中で実は体験を十分にしてはいません。たとえば毎日何度も通り過ぎている家や職場のドアや梁が実際にはどんなかをほとんど思い出せないように、私たちは「見る」ものから「記号」として「機能」や「意味内容」という「情報」だけを取り出しています。こうした「情報」や「知識」ではなく、事象それ自体に改めて出会ってもらうことを意図したわけです。

画像5

そして2)としては、「視覚偏重」を脱し、日頃閉じている感覚を開いて世界を豊かに体験してもらう、というのが意図でした。

実は私たちは日頃、五感をほとんど使っていません

特にオフィスにおいては、音やにおいを出すことはたいていの場合禁じられていますし、体を動かすこともほとんどありません。↓の左上のような状態になっているわけです

画像3

すると私たちはどうしても「視覚偏重」になってしまっています。「視覚イメージ」と「情報」ばかりで思考するようになるのですね。(ビジネスで語られるのが「Vision」ばかりだというのもその現れかもしれません。エコーやにおいや味や手触りで思い描かれる未来像というのもあってもいいですよね)

「視覚」はまさに「enlighten」的で、「分かる」=「分ける」という特徴を持った感覚です。視覚においては主客は分離しています。主体(見るもの)と客体(見られるもの)が分かれている。また、人はものを見る時そこに境界線を見出し、ものとものを切り分けてしまいます。「図と地」というのもそうです。

今回のアート思考ワークショップでは見えるものだけではなく「見えないもの」あるいは「分かる=分ける」だけではない感覚と体験をしてほしかったのです。

画像1

ここで我が恩師・佐々木健一さんの美学辞典における「想像力」の定義を。思考を具体的にし、「独特(ユニーク)」なものにするのは「身体に媒介されている限りでの」思考なのであります。

画像9

ワークショップでは、「アンテルーム那覇」の空間を参加者一人ひとりの身体を通して体験し、それぞれの記憶と想像力で結びついた動画を館内に設置し、「追憶のアンテルーム」として編み直す、ということをやってみました。公式サイトに掲載されているアンテルームの「顔」とはちがった表情をみせる記憶の断片をご覧ください↓( なぜか外とか階段とかランドリーが多い)いいホテルだということが伝わると思います


「わかる」と「わからない」を行き来すること

よくアート思考のお話をする時に「わからないこと」を切り捨てない、という話をします。企業では「お前の話はわからん」と言われ、わかるように説明をできなければ予算は下りません。でも、イノベーションってわからないことの中にしかなかったりする。

勿論、それは「わからなくてもいいよね」と言語化や思考を諦めることではありません。僕が学んでいた「美学芸術学」という学問は、まさにそういうわからないことを言語化しようともがく学問でしたし、アートをテーマに研究することは、そうした「分からないものを分かろうとする葛藤」のプロセスだからこそとても面白いのです。ただ、「分かる」ということはある意味で「既存の分節で物事を分ける」ということでもあります。言葉による説明も、過去の分節によって世界や体験を切り分けることであり、ある種過去を向いていると考えています。

説明できないことや理解を超えたことがある。しかし説明や理解ができないからといってそれは「ない」ということではありません。うまく言い表せない感情や葛藤、言葉を尽くせないような夕焼けの色や季節のにおい、ノイズ、茶の味。むしろ、そこに切り分けられる前の世界があるかもしれない。

「分かった」と思った瞬間にこぼれ落ちていくもの、暗闇の息づかい、図だけではなく地、そういうものを切り捨てず、信じ感じることも、ダイバーシティや創造性のために大事だと思っています。そしてそういうものは「分からない」からこそ、表層的な情報として消費され流れていくのではなく、反芻性をもって身体に残っていくのではないか、と思っています。

現代では「暗闇」に身を置く機会は減っています。「分かりやすい」ことがよいこととされ、知識や”目立つ”コンテンツには人が集まりますから、都市はそうしたディベロップメントを重ねてきました。一方で、分かりにくいものやいかがわしいもの、目立たないものは捨象され、おざなりにされてきたところもあります。ですが、ときには「分からない」ことを体験し、暗さの中にさまようこと、見えない世界のうちで想像力を働かせることも大事なことではないかと思うのです。


ーーー
■関連イベントの告知

11/23(火・祝)から「五感」をテーマに、分かるものと分からないものの境界がゆらぐような、感性を問い直すような体験を生み出す注目の5人の現代アーティストとのアートプログラムがスタートします。

展示・公演だけではなく、なんとアーティスト本人によるワークショップもあります(!)。コロナ禍で参加いただける人数は本当に少ないのが残念ですが、その分貴重な、アーティストの思考を追体験できる機会です。ぜひご注目ください!!



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?