「0→1vs 1-10論争」の不毛さ
たまに思い出すことがあります。5-6年前だったと思いますが、東京で開催されたイノベーションに関するトークセッションに、聴衆の1人として参加した時のことです。
登壇者がイノベーションとは何であるかをプレゼンテーションした後、会場からの質問の時間になりました。そこでぼくは手を挙げて「今のお話の文化的背景をどう考えているのですか?」と聞いたら、確か、「イノベーションに文化的背景など関係ない」というような答えが返ってきたのですね。
あ、天から降ってくる話か。
そこで、ぼくは「欧州でこういう話であれば、必ず文化的コンテクストのありかのような質問がでてくるものですが、お話にあった米国などではどう議論されているのですか?」というようなことを聞いたのです。
そうしたら「米国でも、そういう話は聞きません」とのコメントがありました。
あちゃーと、ぼくは思いました。イノベーションは今のコンテクストを前提条件にしているわけですから、話にならないなあ、と。
少し視点をずらしましょう。
最近、日本の本・オンライン記事などを眺めていて気になることがあります。「あのメソッドでは0→1を生めない。1-10にはいいかもしれないが・・・」という論争を、いろいろなところでしています。ぼくもこのテーマに近いところにおり、墓穴を掘りかねないので要注意なのですが、この論争は2つの点で不毛です。
まず方法論に「依存し過ぎ」であるのが一つ目です。0→1と威勢のいいことを言いながら、なぜ方法に期待するのでしょう。それは少しは経験則なりにしたがうのは悪くないですが、メソッドに期待し過ぎです。
もう1つ大きな声で言いたいのは、0-1であろうが、1-10であろうが、どうでもよく、大切なのは「意味ある」進化なりが、どこかの段階で生じることなんですよね。4→5のところでもまったくいいわけです。
およそビジネスにおいて0という表現は比喩にしか過ぎません。山火事をみて火をつくることを思い立った人は0から1だったかもしれないですが、天動説から地動説への変遷だってコンテクストを踏まえています。アートもそうですよね。アートヒストリーに基づいて、新しい考え方や表現の仕方が提案され、それがアートのシステムのなかで「是認」されるのです。
この議論における0に対する厳密な定義などできようがないので、繰り返しますが、0は比喩です。1→10との比較でこの比喩が使われているのでしょう。0が強調されるのは、「天から降ってきた」アイデアが最高であるとの誤解もさることながら、方法論を比較するための「表現方法」の1つであり、かつ冒頭のエピソードのようにコンテクストを話の前提としない「習慣」の弊害ではないかと思います。
というところで冒頭に戻ると、欧州では文化的背景やコンテクストが常に重視されるので、「より長い期間に渡って維持・評価される(考え方やモノ)か?」がイノベーション論議のなかで中心的なアイテムになります。普遍的であろうと思われる価値を、その時々にアップデイトされた表現で維持していくのが優先事項に入ります。
イノベーション論議に文化性が加味されるというわけですが、日本の0→1は、「過去を水に流す」ことを良しとする文化があるなかで、スクラップ&ビルドを言うなら分からないこともないです。しかしながら、もう片方で伝統や老舗を尊重する文化がありながら、あまりに0→1を強調するのはどうもおさまりが悪いなあと思うのですね。もっと欧州的イノベーションに近い文脈で議論をした方が実があるのじゃないの?と。