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素の自分が考えることは「いい線いっている」と確信をもつ ーベンチマーク依存症からの脱却、あるいは留学のこと。

トップの写真はクリストとジャンヌ=クロードの作品です(ぼくのnoteのページにも使っています)。2016年、北イタリアのイゼーオ湖上にポリエチレンのキューブを黄色い布で覆った長い道を作ったのです。使った布地は7万平米分になります。普段は舟を使わないと往復できない場所を思い思いに歩くことができたのです。

既に作家は二人とも亡くなりましたが、昨年9月、パリの凱旋門を布ですっかりと覆ったプロジェクトがありました。その記録を追う展覧会が、東京・六本木のデザイン施設21_21 DESIGN SIGHTで開催されているようです。

作品はコンセプチュアルだが、クリスト自身は特定の意味を作品に込めることは嫌った。「肯定的でも批判的でも、どんな解釈も正しい」と語り、作品が思考のきっかけになることを願った。

ぼく自身、2016年の作品に接して、その現場で感じ考えたことは沢山あります。6年後、その詳細は記憶に残っていませんが、文字通り、身体で作品を感じたことは感覚として残っています。クリストが願った「思考のきっかけになる」という点について、まさしく!と膝を打ちます。

今回は「思考のきっかけ」を鍵に、想いつつくままに書いてみます。

古代ギリシャのソフィストたちの言い分を、いつ面白いと思うようになったのか?

西洋哲学史の本を手にしても、なんど途中で読むのを放棄したことか!こういう方は多いと思います。ぼくも、その1人です。緻密な思考の繋がりを追いきれなくなったところで、どうしても気力が失せるのです。

哲学は冷たい論理の体系である、と思い込んでいると、どうも壁を感じるのですね。でも、ヨーロッパに長く住んでいるうちに、それらは日常生活のなかで自由自在に使いこなすものだと見えてくると、徐々に壁のそこかしこに穴や崩れている風景があるような気になってきます。

いや、別に、哲学の専門家を論破したいなんておおそれたことを言っているのではなく、さまざまな知恵の集積であるともみえてくるわけです。因みに、これ、カトリックについても、結局のところ生活者の知恵が集まっているところだと気づいてくるのです。そんなガチガチしたものじゃないのですね。

ぼくが、「西洋哲学、いいじゃん!」と思い始めたのは、近代以降のドイツやフランスにある固い哲学に対して、イタリアの柔らかい考え方も時代の荒波のなかで生きてきたと知ったころですね。そして、いろいろと紆余曲折があって、一番最近、あっ!と気づいたのは、古代ギリシャのソフィストたちの言い分をポドキャストで何度も聞いている最中です。

もちろん紀元前5-6世紀のソフィストの発言が録音されているわけもなく、イタリアの哲学の先生の飽きさせないポドキャストでの話のおかげなんです。よくギリシャ哲学として出てくる、ソクラテス、プラトン、アリストテレスの前の時代を生きた人たち、あるいは、こうした3人に対して(歴史上)劣勢となってしまった人たちが一生懸命に考えたことに、実は現代を生きるぼくたちが接近する意味があると思ったのです。

科学技術が大幅に発達した現代で、どうして素朴な世界へ?

ご存知のように、ソフィストたちの時代は自然現象の理解、人間のあり方、美や善とは何かなど、誰でも人なら生を受けて以降、およそ疑問に思うことの一つ一つに問いをたてていったのですね。

科学技術が発達した現代人の目からすると、既に解明済みのことも多々あるので、そういった問題意識の語りを今さら知る必要もないと思う人もいるでしょう。ぼくも、そう思い込んでいました。でも、逆だったんですね。

その後の科学技術の発達でぼくたちが見えにくくなっている、「自ずとわかる領域とは何か」が、ソフィストたちの考えを通じて、はっきりと見えてくるわけですよ。別の表現をすると、「これについては、いろいろな専門家の理論もあるけど、ぼくの頭で考えていることで、いい線をいっていると確信をもってよい」と分かることなんです。

もちろん、その後の2000年以上の期間で批判されたり、再評価されたり、さまざまな波をくぐってきているのですが、「いい線をいっている」と自分で思えるかどうかは、とても大切なんですよ。

あまり西洋文化をステレオタイプに見ないために

西洋文化については、日本の人の間でも多くの誤解があると思うことがあります。「論理が優先される」「自然と人間は対立している」「東洋にある自然を包括するような考えには無縁」はては「西洋人は虫の音を情緒性をもって聞けない」とか、まあ、たくさんありますよね。

そして、「これから東洋の考え方が世界をひっぱる」みたいなキャッチフレーズが出てくるのですが、それはそれで積極的な姿勢として良いにせよ、そもそも、前提として西洋文化をステレオタイプにとられていないか?と思うのです。

ヨーロッパの寒い地域に多くあった考え方と並行して、暖かい地域のもっと明るい人間味あふれた融通のきく考え方がもあり、自然と対立するとそう肩肘はっていることもないわけです。その底流がすごくよくわかるのが、実はソフィストの言説だと思うのですね。

で、これを踏まえて言うのですが、このソフィストたち以降、西洋哲学というのは極めて使い勝手が良いように整理されている。これをうまく使うのが、現代を生きる人間としての知恵ではないですかね。

自由に羽ばたく思考の一つの例としての留学

さて、ここでちょっとジャンプします。現実にあるテーマに適用してみます。

ぼくは、2週間前に「留学って。」という記事を書きました。そうしたら、ボローニャ大学の修士課程で歴史を学んでいる中小路葵さんが、以下のnoteを返歌として書いてくれました。

ぼくは日本で考えられている留学の概念は、いろいろなところで切断というか分断されており、その結果、とても窮屈なものになっていると書きました。中小路さんは、当時勤めていた会社の上司たちに留学の意思を説明した際、留学の意義の多様化について必ずしも理解が得られたと感じられなかったと以下、記しています。

問題は、誰もが認識しているはずのこの留学の意義の多様化について、心から理解し賛成している人が極めて少数である、特にエリート層ほど理解できる人が少ない、ということなのです。

私自身、会社を休職し(はじめは退職しようとしたが、紆余曲折あり、無給だが2年間留学のための休職できる制度を使っている。社費留学ではない)する際に、留学を説明した際、まずはじめに、役員や上司に「なぜMBAではないのか」「歴史を学ぶことが業務やキャリアにどれだけ役に立つのか」と何度も聞かれました。

※ここだけの話、今では信じられないくらい無鉄砲な愚か者だが、上司には「同じようなスキルセットを揃えた戦士ばかりが集まっても、会社としてレジリエンスやクライアントへの魅力の向上に繋がらない」というようなことを、遠回しに言った記憶があるが(笑)、「まぁまぁ、言っていることは分かるが、常務にそう説明しても、理解されないと思うよ」と言われた。上司もどこまで腹落ちして分かると言っていたか不明だが、とにかく、日本を代表する三菱の一企業がこうであったというのが1つのファクトである。

※※私自身、全く自分の会社に恨みはないし、本当に優秀で良い人が集まる良い会社で、温かく送り出してもらった色紙は宝物だが、銀行家やコンサルタントとしてエリートの道を歩んできた人には、およそ理解の域を超えるということなのだと思う。またこうした勉強の成果は長期的で、長い時間をかけてはじめて貢献できるレベルになる類のものなので、どこに価値を置くかという価値観の違いでもある。

中小路さん自身、その上司を批判しているのではないと説明していますが、少なくても価値観の違いがあるから心から理解されないのかな、との思いをしたのでしょう。ぼくが直接お会いしたことのない、彼女の元上司について言えることは限られています。

この上司たちの反応に自分のそれと近いと胸が痛む人もいるだろうし、仕方ないよなあ、と諦めの境地の人もいるでしょう。どう思われても、それこそ自由ですが、できるだけ「考えるきっかけ」を多く、それもバラエティーをもつことで、こういう反応はしたくないなあと改めて気づいた方もいると想像します。

それが「いい線」への第一歩なのです。素の自分で考え判断できることは意外にもたくさんあると気づくと、「あの専門家の意見を聞かなくちゃあ」というベンチマーク依存症から脱却できます。



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