見出し画像

「キャンセルカルチャー」との正しい付き合い方

五輪開会式直前、関係者複数のどたばた辞任を契機にした日経記事によると、「キャンセルカルチャーとは、問題のある言動で地位や仕事を失うことを指す」。

しかし、この定義だけでは、「失言をした本人に、責任を取る・取らせる」という昔からあったごく普通の現象が、なぜ今さら問題になるのか、直ぐには分からない。キャンセルカルチャーが「今」注目される理由を理解するには、ソーシャルメディアによって、世論の作り手と作り方の両方が、大きく変わったことに注目する必要がある。

ポイントは二つ:まず、インターネット普及以前には、一般大衆は、有名人の言動に直接言い返すすべを持たなかった。テレビや新聞に向かって叫んでも、無駄。もちろん目に余る発言には、メディアや政敵が食らいつき、「責任を取らせる」ことになるのだが、その敷居は高かったと言える。ところが、いまはTwitterなどのプラットフォームでいくらでも、名もなき個人が、権力者に対しても糾弾可能だ。それがリツイートをよんで、瞬時に大きな波紋が出来る。「キャンセル」しやすい環境が整っているのだ。

さらに、日経記事が指摘する通り、「我慢を強いられてきた人々がネットで結びつき」声を上げられるようになった。すなわち、今まで社会に存在しないかのように初めから「キャンセル」されていた側が、今度は抑圧者に向かってキャンセルし返すという、力関係の逆転が起こっている。記事が#MeTooに触れているように、セクハラに耐えてきた女性が連帯して、加害者である権力のある男性を追い詰め、地位や評判を「取り消す」ケースが、分かりやすいキャンセルカルチャーの事例だ。

ソーシャルメディアを武器に、弱者が強者に対して立ち上がる―この文脈のみでキャンセルカルチャーを読むと、今まで見逃された悪事にまで、きちんと責任を取せるようになった―めでたしめでたし、となりそうだが、実はキャンセルカルチャーには、ある種の気持ち悪さが付きまとう。それは、舞台となるソーシャルメディアそのものの特性に根差している。

まず、前後の文脈から切り離して、発言だけが独り歩きし非難される怖さがある。切り取られた一言に、感情的な反発が広がり、一足飛びに「キャンセル」につながることは、発言者にとっての不幸にとどまらない。お互いの異なる意見を尊重するという、民主主義の根本が否定される恐れさえある。

次に、だれがどんな基準で「見解の違い」と「失言」の境目を判断するのか、実はあいまいだ。匿名のラディカルな少数派が意見形成をリードする可能性は高いし、さらにダークに考えれば、人間ではないボットが対立を煽り立てているのかも知れない。ソーシャルメディアは一見、誰でも自由に参加できる公的な広場のように錯覚されるが、実は営利企業に運営されている。したがって、失言の判断や炎上の煽り具合に、運営側の思惑が入ることは十分にあり得る。

最後に、人間心理の負の側面が心配だ。すなわち、魔女狩りと集団リンチに密かな喜びを見出す、隠れたインセンティブが疑われる。実際の魔女狩りは大変だが、言葉による魔女狩りなら、ソーシャルメディアが恰好の舞台を提供してくれる。少し前、国内でも女性タレントの痛ましい自殺事件が起こったように、標的にされる側の精神的苦痛は計り知れない。日経記事が指摘するように、一般人のネット書き込みもキャンセルカルチャーの対象になっているということは、学校であったような「しかと」が、どんな大人も十分起こりえることを意味する。

これらキャンセルカルチャーの気持ち悪さを分かったうえで、正しくキャンセルする、またはしないには、どうすれば良いのか?

再び五輪の例に戻ると、森元首相の女性蔑視発言にまつわる一連の「キャンセルカルチャー」では、総じてその良い側面が見られたと思う。今まで我慢を強いられてきた(あるいは、なめられてきた)女性が声をあげ、社会にもそれを応援する気運があった。かたや、森元首相にも、反論と弁明をする機会が、十分に与えられていた。そして、そのやり取りや周囲の反応を通じて、日本にはびこる根深い男女不平等の課題について、社会全体の理解が深まったと感じるからだ。

ソーシャルメディアがポピュリズムを煽ると指摘されているように、この新しいコミュニケーションツールと民主主義の関係は既に波乱含みだ。言論の多様性を排除するのではなく、民主主義を成熟させるために、キャンセルカルチャーと正しく向かい合いたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?