20年代を準備する物語としての「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」(セカイ系の終幕と世界の終わり、そして外部性の物語として)
というわけで、頑なにこれまで書かないで来た、劇場版のシンエヴァンゲリオンの考察を書きたいと思います。今日まで他の人が書いた記事や考察なども見ないようにしてきました。これを書き終えたら、ようやくいろんな人の感想も読みに行けるので、それがまた楽しみです。
さてでは、SNSで共有した時に冒頭の文章が出ちゃう対策も終わりましたし、ここから本論。完全ネタバレなのでお気をつけくださいね!!!
(トップ画像は青い海を赤い海に変換したものですので、こんな海があるんだ!って思わないでくださいねー)
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2021年、第三波と呼ばれたコロナ禍のピークが過ぎ去った頃、シン・エヴァンゲリオン劇場版:||(以下シンエヴァ)が公開されました。奇しくもサードチルドレンがサードインパクトに怯える物語であり、ニアサードを生き抜いた子どもたちが第3村で不安を抱えながらも強く生きる物語であることに、庵野監督の宿命のようなものを感じます。エヴァンゲリオンは、常にそうでした。監督自身が望むにせよ望まないにせよ、どこか世界の運命と連動して物語が紡がれてきたような気がします。このシンエヴァもまさに世界がコロナ禍で動揺する中で、これまでのエヴァを全て引き受け、そして20年代以降に橋渡ししようとする意思を感じる物語でした。今日はそのことについて書きたいと思います。以下、注意点を。
1.完全にネタバレを含みます
2.ネタバレの範囲は、TV版アニメから新旧の劇場版まで全てです。あと、新海監督の「君の名は。」や「天気の子」、あるいは「風の谷のナウシカ」にも少し触れています。
3.今回の考察は、劇場で一度見ただけの状態で書いているので、誤読や思い込みが大きいと思います。ごめんなさい。
さて、話は長くなりそうなので、最初に結論だけ書いておきますね。気をつけてくださいね、ネタバレ全開ですよ。
シンエヴァを見て僕が感じたのはこういうことです。
ゼロ年代の想像力の全てを準備したエヴァンゲリオンは、シンエヴァンゲリオンにおいて20年代への回答として、ゼロ年代に自ら幕を引いた。
ゼロ年台の想像力とは、つまり「世界の運命は僕と君」に象徴されるような、外部性を欠如した形で、関係性が個人の内面に制限されるタイプの想像力を指します。通称「セカイ系」と呼ばれる物語群によって象徴されるこの想像力は、1995年に開始されたTV版「新世紀エヴァンゲリオン」によって準備されたと見るのが一般的な見解のようです。
「「一人語りの激しい」「たかだか語り手自身の了見を『世界』という誇大な言葉で表したがる傾向」がその特徴とされており、ことに「一人語りの激しさ」は「エヴァっぽい」と表現されるなど[3]、セカイ系という言葉で括られた諸作品はアニメーション『新世紀エヴァンゲリオン』の強い影響下にあると考えられていた。」(上記リンクより引用)
一方、シンエヴァは、この「外部性」を欠如した想像力を、監督自らの手で終幕させる形で、20年代以降の物語の「引き受け」を志した物語として見ることができると、映画を観て感じました。そのように感じた理由は、これまでのエヴァの物語を全て見返した時、極めて異質な要素として映画の中に現れた「第3村」の存在です。シンエヴァは、この「第3村」の「外部性」と、主人公たちのそこでの「恢復」をこそ描いた物語だったというのが、今回の僕が書きたいことのまとめになります。
1.シンエヴァの特異な「Re」的位置付け
今回の記事を書こうかなと思った直接の原因はこの記事を読んだからです。
「過去を懐かしむだけではない。庵野監督のように伝説的なコンテンツを生かし、新しい価値を創造する営みが求められる。」(上記記事より引用)
シンエヴァにとどまらず、このところ「シン」という形で、過去のコンテンツが令和時代に新しく提示される流れが続いているという記事で、その最後のところにシンエヴァが言及されていました。
確かにこの記事で指摘されている通り、優良なコンテンツが最近になってリバイバル的に使われる例は頻繁に目にしますし、それはいいことだと思ってます。ただ、他に例として言及されている例とエヴァが決定的に違う点が一つあるんです。
シンエヴァは、確かに「伝説的なコンテンツ」であるエヴァンゲリオンを使った「新しい価値」なんですが、例に挙げられた他のものと違うのは、「エヴァはいまだにリアルタイムである」ということです。作り手のみならず、受け手である我々さえ、エヴァが終わったと思った人は、これまでいなかったはずです。今回だけではなく、エヴァはそのTV版の終わりからずっと、REを続けてきました。そして今回の劇場版は、その繰り返しの「引き受けの責任」のような意識が、音楽記号である:||にも表れています。つまり、エヴァがやってきたこと、そしてこのシンエヴァでやろうとしているのは、単なる懐古趣味ではなく、現在進行形の問題系列を、庵野秀明という、アニメ界に表れた稀代のクリエイターが、常に引き受け続けてきたことの証明であり、そして今回はその集大成だということなんです。
2.新世紀エヴァンゲリオンの内部性
このことを話すためには、まずエヴァとはなんだったのか、その最大のポイントについて考えてみたく思います。さまざまに論じられてきたエヴァですが、物語構造の点からみたときにシンプルに見えてくるのは、「外部性の欠如」でした。あの独特の息苦しくなるようなシンジくんのモノローグシーンを持ち出すまでもなく、エヴァという物語は、主人公碇シンジの「内部」が強烈に満ち満ちている物語です。そしてその内部には、ごく僅かな登場人物しか出てきません。碇ゲンドウ、ミサトさん、レイ、アスカ、加持さん、トウジ、ケンスケ、委員長。せいぜいあとはNERVのスタッフくらいでしょうか。物語の最初の方、「先生」と呼ばれていた人物が何度か言及されます。多分シンジくんが預けられていた先の存在なんでしょうが、彼にとってはそれほど大きな意味を持たなかったこの人物は、姿形を与えられず、いつもどこか仮想の記号的な存在のようにしかシンジくんの意識の中に上がってこず、アニメを観ている我々にも姿形が提示されません。外部的目線が完全に欠落しているために、シンジくんの内面だけが「絵」になって現れるエヴァの特徴です。
このような物語の作り方は、それまでの常識からは逸脱したものだったのでしょう、だからこそ熱狂的な没入感を提供することになります。エヴァを見た人は、つらい外部を見ないですむ内的な物語の強度に取り込まれ、そこに自分の内部を何重にも重ねうることを発見することになります。誰もが一種の「エヴァ症候群」にかかることになります。そうして準備されたのが、2000年代に特徴的な想像力である「セカイ系」と呼ばれる意識です。
セカイ系に関しても、もはや言葉は尽くされるほどに論じられてきたので、ここでは簡単な説明だけにとどめますが、基本的には「世界」は「セカイ」として認識されます。その「セカイ」には、基本的には「君とぼく」しかおらず、そしてこの二者関係が「セカイ」の運命を決定づけます。僕らが生きる小さい小さい世界、つまり「中間項目」であり「外部性」でもあるような領域は無視されて、内部での決定が、セカイ全体の運命を決定づけてしまうわけです。
エヴァにおいては、シンジくんとレイの関係性が、世界そのものを崩壊させてしまうという、典型的な「セカイ系的想像力」が物語の中心に鎮座していました。エヴァの「破」においては、それがさらに本来「外部」であるべきはずのミサトさんによっても肯定されます。あの物語のクライマックスのシーンは、今だに心に焼き付いています。
「行きなさい!シンジ君!誰かのためじゃない、あなた 自身の願いのために!」
こうして、アニメシリーズの思想を忠実に受け継ぎ、物語の内部性を「都合の良い外部的存在」によって補完するという、一種の自慰行為的な物語作用によって、映画版の「破」は、多くのファンに傑作として受け入れられます。
これは「破」を批判しているのではないですよ、そこは誤解しないでくださいね。僕も「破」は大好きなんです。でもこの物語の作り方によって庵野監督は自らを苦しめることになったんじゃないか、そう思います。常に自ら物語の更新と刷新を志してきた監督だからこそ、苦しむ羽目になった。シンジくんには「あなた自身の願いのために!」と背中を押しながら、監督が「破」において実現しようとしたのは、「僕らファンの願い」だったのではないか。今ならそう思います。
この流れから必然的に生まれたのが、賛否両論の「Q」でした。
2. 外部性の導入としてのQと、その歪さの要因
映画版のQは、今だに賛否両論の強い作品として、ファンの間では取り扱いの難しいエヴァ「外典」的に見做されているように思います。それまで全く存在しなかったヴィレやヴンダーの存在、あれほど優しかったミサトやアスカのシンジくんへの敵意や憎悪。終始物語の蚊帳の外に置かれているシンジくんの前にようやく現れる、典型的デウスエクスマキナ(機械仕掛けの神様のこと。転じて、物語を都合よく進める存在)であるカヲルくんは、頭部爆殺のちょっとショッキングな退場。Qを見ると、監督の苦しんだ跡がよく見えるような気がします。
「破」の好意的受容から見えてしまったファンの怨念のような内部性への拘泥、ゼロ年代の誇大妄想的愛情を解体するために、必死に「外部」を取り込もうとしたのが、いわばQという物語の核心です。
でもそれは、やはりうまく機能し切らなかったというのが、シンエヴァを見ての結論です。シンエヴァと比べると、Qでの「外部」は、あまりにも記号的で都合がいい。まるで内部を解体するために、都合よく構成された、内部との連続性を欠いた「外敵」のように描かれます。そこにおいては、シンジくんは強制的な「禊」を体験させられているようで、結局シンジくんは相変わらず自分の外側には目を向けず、「内部の都合の良さ」はそのまま保存され、ただひたすら後味の悪さだけが残る結果になりました。そりゃそうです、「敵」は結局、排除するしかないのですから。
もちろん、エヴァというのは、この「後味の悪さ」こそが醍醐味だという方もいらっしゃると思います。かくいう僕も、実はQ大好きなんです。よくもまあ、ここまでファンの期待を裏切ったままで、その上で、しっかりと完璧に「エヴァ」できたなと。そしてその完璧な「エヴァみ」こそが、Qの抱える構造的な問題であったことは、シンエヴァの「第3村」を見て直感しました。
つまりこれまでのエヴァは、どんなに期待を裏切ろうと、どんなにメチャクチャな展開をしようと、絵コンテのままでアニメを終わらせようと、「エヴァっぽいよね」と、僕ら「エヴァ症候群」にかかった人間の内部へと回収されてしまう都合の良さを持っていたのです。それこそがエヴァの強みであり、エヴァの魅力であり、エヴァンゲリオンという物語が仕掛けた壮大な罠でした。僕らは20年以上も、その罠の中で気持ちよく「エヴァの夢」を見ることができた。でも「第3村」の存在が、その夢を優しく壊してくれました。
3.エヴァにおける外部性とは
その夢の効果を書く前に、「外部性」についてもう一度考えておきます。
上でも書きましたが、Qにおいてシンジくんの内面を解体するための「外部性」は導入されましたが、そもそもこれまでの過程の全てのエヴァでも、物語の最初から「外部」は仄めかされているんです。例えば加持さんのあの畑。スイカ畑。「葛城を守ってくれ」と死を決意してシンジくんに託すあの場所、何度見ても胸にくるシーンですが(ミサトの「大人のキスよ、帰ってきたら続きをしましょう」と並んで)、エヴァにおいて常に加持さんは「外部」であろうとし続ける人物として機能するわけです。
どのバージョンの加持さんも、スイカ畑であったり、海洋研究所であったり、そしてシンエヴァでの「生物種の保存」であったりという形で、物語の外部を生かそうとする存在が導入されていました。また、サードインパクト自体、そもそもが「人類の罪の象徴」のようなものとして描かれています。
というより、この10年ほどのアニメ業界が、「ゼロ年代の想像力」の呪縛を解体するために、セカイ系の超克を目指してきた気がします。その象徴こそが、新海監督の「君の名は。」と「天気の子」だったろうと思うのです。細かくは下の記事に書きました。
さらにルーツを辿るならば、上の記事でも書いたんですが、そもそも日本のアニメにおいて、物語の「外部性」を強く意識していたのは、ジブリの宮崎駿監督です。それを正面切って描いたのが、まさに「風の谷のナウシカ」で、そのナウシカで、外部性の象徴のように描かれていた巨神兵を描いたのが庵野監督だったというのは、もはや運命でしかありません。あるいは、庵野監督が「シン」の形で描き出したゴジラもまた、人類の水爆実験の結果生まれた、「外部」そのものの怪獣として、我々の「内部の都合良さ」を炙り出す存在として生まれたものです。そう、日本のアニメは、ずっとずっと、「自分の内部」を批判的目線で検証し、止揚する存在である外部を物語内部に準備していたはずでした。
ですが、宮崎駿が正面から捉えようと試みた「世界の崩壊」の問題は、0年代において歪んだ形で排除されてしまいます(宮崎駿さえも、「風の谷のナウシカ」の問題意識を、ナウシカ以降の物語にはそれ以上の強度を持って描くことができなかったのですが)。セカイ系の想像力に何か問題があったとすれば、それは「世界」の問題を見なかったことではなく、「世界の問題」を「セカイの問題」、すなわち「君とぼくの問題」へとすり替えてしまったことでした。そのような意識を準備したのがTV版の「新世紀エヴァンゲリオン」であり、新海監督はその功罪を意識して「天気の子」を描きつつ、正面からそれを捉え切ることができませんでした。
「天気の子」において、主人公の帆高に「銃」を与えたのは、実に不穏でしたし、主人公たちが自分たちの「セカイ」を「永遠にこのままで」と祈ったのがラブホテルだったのも、これまでのセカイ系の安寧の世界観の観点からは異質な状況設定の使い方でしたが、最終的には物語は陽菜の「祈り」と、その祈りへと飛び上がる主人公の「君とぼくの決断」によって世界は崩壊してしまいます。僕らの「セカイ」が「世界」を崩壊させるというフォーマットを崩すほどの批判的な「外部の目」は、やはり天気の子には存在しませんでした。
4.シンエヴァにおける「第3村」
こうした流れの中、これまでの物語を全て引き受け、自分が作った物語も、そしてそれによって生じた0年代の想像力にも真正面から向き合い、Qのような都合の良い「審判」ではない形でシンエヴァに登場したのが、第3村です。サードチルドレンであるシンジくんが回復するのにふさわしいネーミングですね。
その存在の特異性は、見た人には通じると思うんですが、エヴァンゲリオンという物語のおいては極めて異質な描かれ方をしていました。村はまるで戦後の日本のような筆致で描かれ、その中での生活を通じて、アスカが、レイが、そしてシンジが回復します。実はシンエヴァンゲリオンの物語的な核心部は、この第三村で全て語られていると言っても過言ではないのですが、これまでだったらLCLの海の中で語られる「意識の物語」のような展開が準備されそうな内容が、例えばレイの農作業を通じて描かれます。そう、レイこそが、第3村の振る舞いの特異性を決定づけます。
これまでエヴァには、「近所のおばちゃん」は描かれませんでした。シンジくんのお世話になった「先生」が、一度として描かれたことがないように。でもシンエヴァでは、レイはおばちゃん達と農作業に行き、さらには一緒にお風呂に入り、そして生まればかりの赤ん坊との交流を果たします。コピーに過ぎない綾波レイが、この場所で「心」を学び、そしてその学びとともに最後シンジくんに想いを告げて消失するシーンは、あまりにも切なくて泣けました。そこは助けてやってくれよ!!頼むよ監督ーーーー!!!って、映画見ながら泣いちゃいましたよ。でもまあ、だからしんちゃんも頑張りますわな、わかります。
それはさておき、このおばちゃんたちの存在によって、第3村はしっかりと肉と骨のある人間が、自分たちの生活をなんとか「汚染区域」から守ろうと生きている場所であることが描かれます。そしてその姿形のある「他者」をシンジくんたちに接続する存在として選ばれたのが、「エヴァの呪い」から無縁だった、かつての同級生たちです。トウジやケンスケ、ヒカリたち。彼らがしっかり大人になって、次の生まれてくる子どもたちのために未来をなんとか少しでも守ろうとします。崩壊しつつある世界において、大人が何を引き受けることができるのかという問いに、何一つ都合の良い回答は持てないまま、なんとかそれでも自分の出来うる範囲を生きようとする姿を、シンジもアスカも、レイさえも引き受ける。これがシンエヴァで最も大事な部分なんです。
その姿は、「20年代に大人であることはどういうことなのか」という問への、庵野監督の回答のようにも思いました。それは同時に、永遠の内部においてぬくぬくと進んできたエヴァの物語が、いよいよ終わりであることを強く印象づけます。一言で言うと、「20年代以降、もはや僕らは内部に安住してはいられない」と言う、強い危機感が反映したものだと感じます。自分の外側で何が起こっているのか、それをちゃんと観ないでは、何一つこの先動かすことができない、そのような危機感が物語として結晶化したのが第3村なんです。
実際に映画を見た皆さんには、すでに了解していただいていると思うんですが、この「第3村」の外部性は、Qにおけるヴィレのようなものとは少し違うものであることは一目瞭然です。一番大事なのは、第3村は「汚染区域」と「地理的に地続き」であるという点なんです。ヴィレの技術によって、汚染区域から保護されている場所は、もしその技術が失われたらたちどころに人の住めない場所になる。映画内において、ケンスケ自身がそういうシーンがありました。自分たちの「内部」が、常に「外部」との境界領域において接触しうる可能性があり、その不安定さに対して誠実に向き合うことでしか、内部の成長も外部との折り合いもつかないわけです。この時、外部は排除可能な「敵」ではなくなり、「内部」を幼い夢から解放するための契機になり得ます。つまり、第3村の地理的な配置を見ても、この第3村の外部性は、これまで内部にとって単なる「敵」であった外部とは違って、地続きの「外部性」であることが見て取れます。
もっと正確にいうならば、「第3村」はシンジにとっては外部ではありつつ、汚染区域のような本当の「外縁」でもなく、その場所へとつながるグラデーションを有した、内部と外部の緩衝地帯のような描かれ方をしているんです。完全な内部とも完全な外部とも繋がっている場所。そこでシンジくんは「外の見方」を学び、ついに回復するという流れです。
5.SDGsの世界の中で
少し話を大きくしますね。我々自身が生きる世界のこと。セカイではない方です。
今生きている40代以降の人々は、多分、少しずつ、世界に対する「罪」を背負った被告であることは、もう共有された見解ですよね。グレタ・トゥーンベリさんが2018年に国連サミットでスピーチした内容は、「大人が私の未来を台無しにしようとしている」と断罪したものでした。彼女が作ったリーフレットに象徴されているように、全ての「大人」が、今いる子どもたちの未来を危機に晒す「被告」として告発されています。グレタさんの告発に対する是非は、僕には論じる能力はないのですが、この告発を無視することは、被告である我々にはできないのでしょう。
問題は環境だけにとどまらず、僕らの世代はおそらくずっと、「大人になることを拒否してきた」世代なんだろうと思うんです。一見安定していて、年を経るごとに便利になっていく「内部的世界」で、小さな自分の生活範囲にだけ目線を集中している間に、世界は後戻りができないほどに損なわれつつある。その閉じた想像力のありようと、外部に対する目線の欠如は、まさに0年代の想像力である「セカイ系」の人物そのもののようです。
僕らが自分の「セカイ」で気持ちよく生きている間に、「世界」の方のデッドラインは、もはや過ぎてしまっている。遠からず、世界はおそらく後戻りできないほどに変容する。そのことをようやく僕ら大人は気づきました。2015年から、SDGs(「Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)」)として展開されてきたアクションは、この2021年になってようやく日本においてはテレビでもよく見かけるようになってきましたが。これさえももうただのまやかしであるとは、斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』で指摘されたことなのですけれど、その是非はおいておいて、少なくとも僕らは「外部」を意識しないではもはや生きられない、それが20年代の基礎的な世界把握だと思うのです。
そしてそれがあらゆる文化において敷衍されながら、一つの価値観、思想、哲学、文化として流布していく10年になるのでしょう。そのような世界を前にした時、0年代に幕引きをして、アニメという僕らに最も近しい「カルチャー(もはやサブカルチャーとは言いません)」の内部において、20年代への架け橋を作り出したのが、シンエヴァだったと思うのです。
すでに書きましたが、「第3村」を必死に維持してきた「大人」たちは、誰もがシンジやアスカのようなスーパーパワーを持っていないし、レイのような特異な存在性を持っていません。自分と家族の命、そして自分が所属している小さな共同体を愛して、その小さな世界をなんとか守ろうとする人々として描かれます。かつて一緒に生活をした同級生たちのそんな姿をシンジに見せることで、エヴァと言う物語は自らの「内部的閉じこもり」を解体していきます。
そう、映画を見ているとき、途中で思い出したんです。「ああ、だからカヲルくんは出てこないんだな」と。彼こそが、エヴァンゲリオンという物語における究極のデウスエクスマキナとして、いつだって解決不可能な問題に都合の良い外部的目線を優しく担保してくれたんでした。彼が出てきたら、物語は安穏な内部、LCLの優しい海の中で、精神の自慰を続けられる。でもシンエヴァではついに物語の中心には出て来ず、シンジくんの姿をただ外から眺めているだけでした。まるでその役割が終わっていることを、決定づけるように。それを思うと、Qにおいてカヲルくんを爆殺したのは、庵野監督の決意だったのかもしれません。あの時すでに今のような物語展開を、構想まではしていなくても、おそらく志向していたはずです。カヲルくんに頼らず、シンジを「世界」に戻すための物語を。
6.新宇部川駅からの、長めのまとめ
物語の終盤、ゲンドウとの戦いから、新宇部川駅までの流れは、「セカイ」に耽溺し続けた物語を、いかにして「世界」と言う現実へと戻すのかに取り組んだ、庵野監督の最後の苦闘が見て取れます。NHKの「プロフェッショナル」での映像を見て気づいたんですが、あの初号機と13号機の戦いって、半分は特撮っぽい撮り方でやってるんですね。現実世界へとエヴァの物語を戻すための段階的手続きのように、アニメから特撮へ、精神世界から現実世界へ。そして最後にシンジとマリは、宇部新川駅から飛び出していき、その空間がドローンのような視点で上から観察される。主人公二人が、我々の生きている「現実世界」へと溶け出て、ただの「一人の人間」になっていくように。
こうしてエヴァンゲリオンという物語はシンエヴァによって幕引きをされました。最初に書いた結論をもう一度書くと、
ゼロ年代の想像力の全てを準備したエヴァンゲリオンは、シンエヴァンゲリオンにおいて20年代への回答として、ゼロ年代に自ら幕を引いた。
こうなります。この観点を、この記事では「外部性」という単語を用いて考察しました。最後に少し「大人」であったはずのゲンドウを意識しつつ、別の視点でまとめを書きます。
これまでのエヴァは「子どもが世界を知る物語」として描かれていたと思うのですが、このシンエヴァにおいては、視点が「大人が世界を知る物語」へと転換されたように思います。これまでのエヴァンゲリオンはずっと、シンジくんという14歳の子どもが、例えば世界、例えば他者、例えば母、そして何より父、自分の目の前に現れる「謎」を知ろうともがく物語だったと思います。その一方で、大人たちは「人類補完計画」とか「ゼーレのシナリオ」とか「死海文書」とか「ロンギヌスの槍」とか、完全に厨二病のワードを連発する存在として描かれる。普通大人は子どもに説明をして、手引きをして、保護し導く存在のはずなんですが、その大人の方が「謎」を撒き散らす迷惑な存在として描かれてたんですね。
それが、シンエヴァでは、かつてシンジたちと同じ「子」であったトウジやケンスケやヒカリが、ちゃんとした「本当の大人」となって、子とは違う目で世界を再び知り、悩み、守るものとしての責務を学ぶ過程が描かれます。畑を耕し、赤子を育て、家を建て、共同体を作り、世界を小さな所から作り直そうと奮闘しています。その姿を、「エヴァの呪い」で「子」であることが強制されていたシンジたちに見せることで、シンジたちもまた「大人」へと少しずつ成長していく。
そして最後には、ゲンドウ自身が、自ら見えていなかった存在を「知る」ことで物語は綺麗に終わりを迎えます。他者と世界を拒絶し、「知識」だけを愛した「大人こども」であるアダルトチルドレンのゲンドウは、実は最も身近な場所にいたはずのユイのいるべき場所さえ見えていなかったという、「大人もまた世界を知る必要があった」という結論を抱えて、この物語から出ていくのです。それはまた、庵野監督自身がシンジとゲンドウのそれぞれに自分の過去を投影しつつ、新しい20年代を生きるための決意を描き出したようにも見えます。
というわけで、ずいぶん長く「シンエヴァ」の話を書いてしまいました。繰り返しますが、まだ一度しか見てないので、構造を理解するのが精一杯でした。色々と齟齬や矛盾もあると思うんですが、ご寛恕いただけましたら幸いです。
最後に、庵野監督には感謝しかありません。プロフェッショナルを見て改めてそう思いました。そしてエヴァをこの25年間支えてくださった全てのクリエイターの皆さんにも。歪みが多かったとはいえ、僕らの0年代を、その想像力を作ってくれてありがとうございました。そして、20年代へといくために、自らそれに幕を引いてくださった勇気に心からの敬意を評して、記事を終えます。
全てのチルドレンに、おめでとう。そう、最後はこれを言わなければなりませんよね。