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 言葉は、私たちの思考や行動を無意識のうちに縛っています。その中でも特に重要なのが「接続詞」です。

 例えば、今日、締め切りが守れるか不安な仕事があるとしましょう。締め切りが守れないかも、という心配が、思わず浮かんでくる状況です。ここで、接続詞が大事な役割を果たします。
 
  締め切りが守れるか確信がもてない。だから、不安が抑えられません。
 
と思う時、「だから」という接続詞は、あなたの不確実な状況を強調しています。
 接続詞を変えてみましょう。
 
  締め切りが守れるか確信がもてない。でも、前向きに頑張ろう。
 
ここで接続詞を「でも」に変えてみました。そうすると、一見前向きなところもありますが、置かれている状況や自分の気持ちに反して無理している感じがあります。
 さらに別の接続詞を使ってみましょう。
 
  締め切りが守れるか確信がもてない。だからこそ、前向きに頑張ろう。
 
 接続詞を「だからこそ」に変えてみました。確信が持てない状況は、そのまま受けとめつつ、前向きな意思を感じる表現になります(「だからこそ、敢えて」と強調してもいいです。この場合には、「締め切りが守れるか確信がもてない。だからこそ、敢えて頑張ろう。」となります)。
 
 皆さんは、この「だからこそ」という接続詞を使ってますか。
 上記の「だから」や「でも」や「しかし」という順方向や逆方向の論理だけでは、人生のストーリーは表現できません。このような単純な論理に縛られないことが、自分の人生を力強く生きるためには必要です。人生のストーリーを自ら能動的に創り出す武器になるのです。
 
 過去の偉人は、このような単純な順方向/逆方向を越えた論理の達人です。
 例えば孔子は、

  これを知るをこれを知るとなし、
  知らざるは知らざるとなす。
  これ知るなり。

  私には、知らないことがある。
  だからこそ、知っていることと知っていることの違いが分かる。
  それこそが知るという営みだと思う。

さらに、孔子はこうもいいます。

  過ちて改めざる、これを過ちという。
 
  私は間違うことがある。
  だからこそ、間違ったと気づいたときに迷いなく改める
  気づいても改めないことこそが間違いだと思う。

さらに宮澤賢治は、

  永遠の未完成、これ完成である。

  私のやることはいつも未完成である。
  だからこそ、常に完成に近づけようとする。
  それこそが、完成と呼ぶべき営みだと思う。

「だからこそ」を使うことで、これらの深い見識に迫れます。これらの達人は、知らないことを知るといいきり、間違いを間違いでないといいきり、未完成を完成といいきります。知るか知らないか、間違いか間違いでないか、完成か未完成か、という二分法を越えています。これが仕事と人生の鍵です。

 私は、上記のような状況で、締め切りが守れるか確信がもてない。だからこそ、安易にまとめず、可能性をさがそう。と考えてみたのです。
 実はここで、締め切りを守ることに自分がとらわれていたことに気づいたのです。この仕事には、もっと大きな意味や可能性の広がりがあったのに、すっかり忘れていたことに気づいたのです。
 是非、皆さんも「だからこそ」という接続詞を意識して使ってみてください。
 あなたの思考の何かが変わるはずです。


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