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道徳的な大義名分なんかで、人が本気で消費行動すると思ってんの?

アイドル消費というのは応援消費なのか?について考えてみたい。

かつてCDが何百万枚も売れた時代もあった。しかし、1998年の6075億の市場規模を頂点として、以後衰退した。2017年には、2320億円と最盛期の半分以下に落ち込んだ。唯一、2012年だけは前年比を超えて3000億円超の売上となったが、その年売れたシングル曲のベスト10のうちの半分はすべてAKB48の楽曲である。

ご存じの通り、当時AKBグループのCDが売れたのは、特殊な理由だ。あれは「音楽」を買ったというより、握手権や投票権を買ったという現象である。これを、体験を買うコト消費だと分析する人もいるが、決してそうではない。

握手や投票などという体験は、所詮手段であって目的ではない。では、アイドルオタクたちが、なぜ同じCDを何枚も買ったのかというと、それこそ自分の「精神的充足」のためなのだ。

自分が応援するアイドル、「推しメン」を支えているという立場に自分自身を置くことで、「認められた」という承認と「成し遂げた」という達成が得られるとともに、「ああ、俺はここにいて、役に立っているんだ」という社会的役割を感じられるからである。それが彼らにとっては「コミュニティへの帰属意識」による安心を得ることになる。

コミュニティと言っても、「集団への所属」という従来のものとは全く性質が違う。彼らは、仲間意識のようなワンピース型コミュニティは求めていない。絆とか、そういうしがらみや縛りはむしろ嫌う。

そして、居場所でもない。彼らのコミュニティとは、彼らが行動している瞬間だけ発生する刹那のコミュニティである。刹那の感情のつながりと言ってもいい。そこで生まれる刹那の感情を共有して、その瞬間だけ通じ合えればいいという感覚だ。

その刹那のつながりが刹那的であればあるほど、かえって幸福感は高まる。

人見知りなオタクたちが、今まで一度も会ったことが者同士なのに、「推しメン」が一緒であるという事実だけで、急に親近感を持つのもそれに近いものがある。かといって、それを機に友達になるわけではない。その瞬間だけつながれればよいのだ。

つまり、彼らはコト消費などという体験を買っているわけではなく、ましてや思い出を買っているわけでもない。握手もライブで大騒ぎすることも、それ自体は目的ではなく、それによって得られる「今この瞬間の自己の社会的役割を実感することでの自己肯定感」を買っているのだ。

それは、刹那のコミュニティを作っていることであり、瞬間的な帰属意識で幸福感を感じることだ。これこそが、僕が提唱しているエモ消費のひとつの形である。

エモ消費についてはこちらの記事を参照いただきたいが、

簡単に言えば、お金や時間を消費することで幸福感を得ることである。

つまり、アイドルオタクたちがやっていることは、本質的に応援消費ではない。応援は単なる手段にすぎず、アイドルたちを応援するという手段を通じて、自己の社会的役割を買っている。いわば「擬似子育て」に近い。

オタクたちはの幸福度は高い。12/1のアベマプライムでも紹介されたが、元来未婚男性の幸福度は低いのだが、何かしらのオタクである人は、何のオタク趣味も持たない未婚男性と比べて、10ポイント以上も幸せなのだ。

より詳細に言えば、オタクの幸福度は、恋人がいる人の幸福度や年収500万円以上の人の幸福度に匹敵する。

詳細はこちらの記事に書いたのでご一読いただきたい。

没頭できるオタク趣味を持つことは、幸せの近道なのだ。

とかく「利他」が崇高な精神であるかのような物言いをする輩がいる。道徳的に正しい行いを他人にも強要する輩がいる。行動の原理がどんなものかなんてことは実はたいして重要ではない。

「誰かを応援することがなんか社会のためになる」とか「環境のために気を遣うことが社会のためになる」などという偽善思想はいらない。「自分の幸せのためだけに」という利己的な欲求で構わない。

もちろん、道徳的に正しい動機に基づいてそういう目的のために生きているというような人がいるなら、どうぞご自由に。否定しないし、邪魔もしない。でも、別にそれが素晴らしいこととも思わない。だって、大抵の人間はそうじゃないし、だからってそういう人間がダメなわけじゃないから。

だから、みんなの考え方を変える必要があるとか言い出す輩に至っては、もう害悪でしかないと思う。社会というものは別に思想で動いているのではない、人間の行動の結果によって動いている。そもそも、理屈なんてものは、やってしまった行動を後付けで理屈付けするためにあるのであって、理屈が先で人間は行動しない。動機や意識などたいして重要じゃない。

誰かがお金を払って消費をするということは、そのきっかけとなる内的な道徳的意識などどうでもよくて、誰かの消費はすなわち現実的に誰かの収入となり、利益となり、給料となる。その給料から得たお金でもその人は別の消費をすれば、また誰かの給料となる。社会とはそうしてつながっていくものであり、たかが一個人の意識ごときで何かが変えられるなどという考えは傲慢以外の何物でもない。

意識なんて変えなくてよいし、意識を問うことも無意味。どんな消費であれ、消費行動すれば、それが、結果的に社会のためになっている。人間は応援するために消費をするのではない。消費をすれば、誰かを、何かを、自ずと支えている。

個人の利己的な消費行動の積み重ねが、他の誰かを支えるし、結果として社会は潤う。それが経済というものだ。それでいいし、それがいいのだ。

#日経COMEMO #そのお金どう使いますか

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荒川和久/独身研究家・コラムニスト
長年の会社勤めを辞めて、文筆家として独立しました。これからは、皆さまの支援が直接生活費になります。なにとぞサポートいただけると大変助かります。よろしくお願いします。