「自分」起点の価値をつくる、アート・シンキング・ワークショップ、 の、 振り返り
ちょいご無沙汰しています、uni'que若宮です。
ここ2ヶ月、自社で女性特化のインキュベーション事業を始めたり、アート・シンキング本の執筆をしていたりとばたばたで、COMEMOの寄稿頻度が少なくすみません…
そんな中、先日日経COMEMO主催でこんなワークショップの講師をさせていただきました。
https://eventregist.com/e/comemo1024corevalue
渋谷にある三井住友フィナンシャルグループのイケてる隠れ家系オープンイノベーション拠点 hoops link tokyoで開催したのですが、定員いっぱい多数の方においでいただきました。
参加者の方にレポートも書いていただきとてもうれしかったので、アンサーソング的に「アート・シンキング」ワークショップで目指したことについて(反省点を含めて)書きたいと思います。
※イベントでは「アート・シンキング」ってなんなのか、ということについてごく一部しか触れられなかったので執筆中の『ハウ・トゥ・アート・シンキング』からゲラを引用して補足します(ゲラ段階なんで本ではちょっと変わる可能性があります)
目指したこと
今回のワークショップの目的は、「アート・シンキング」的なモードへの変化を少しでも体感してもらうこと。
僕が考える「アート・シンキング」のキーワードは「自分起点」と「触発」なのですが、これを短い時間でどうやったら体感してもらえるか、を第一に設計しました。
「アート」というと、絵を描いたりとかするのかな、と期待されていた方もいたかもなのですが、120分ではどう頑張っても”形だけ”やることにしかならない。
「デザイン・シンキング」がデザイン・テクニックの問題ではないように、「アート・シンキング」といってもアートをつくったりアート鑑賞するのが主眼ではありません。(それだと「アート・シンキング・ワークショップ」というより「アート・ワークショップ」です)
そうではなく、重要なのは「自分」に向かい合う時間とプロセスの方なので、形だけ「アート」っぽくやるのは思い切ってやめました。(本当はつくったり触れたりできた方が「アート」のモードを体感できるのですがそれを組み込んだワークショップは数日ないと辛いので…)
ビジネス・パーソンが集まる場でいつも頭を悩ませるのが「合理性」と「社会性」の殻をどう剥がすか、ということ。これがいつもとても難しい。
ビジネス系イベントに来ている方は、良い意味で「意識高い」方が多く、色々チャレンジしていて知識も豊富でロジカルだし、「ありたい自分」を割とちゃんともっていたりする。
でも、「知識」や「ありたい自分」というのは、アート・シンキング的には大敵。「自分」を見えなくしてしまうので、それがバイアスであることにどう気づいてもらい、それをどう外すか、というのが正直一番苦心するところです。
実験と反省
僕のワークショップでは企業でも個人でもまず、「自分」を徹底して掘り下げていくのですが、ここは場の空気によってかなりブレが出てしまいます。
場が「固い」と防衛が働き、正しいことや綺麗なことしか出ないので、「自分」の掘り下げが浅くなります。本気でやる時はマンツーマンでファシリテーターとして付きっきりでやるので、隙きをみてクリティカルな問いをぶつけて強制的に掘り下げることもできるのですが、今回は50人同時並行。
「自分」をどれだけさらけ出せる空気にできるか、がポイントでした。(結果としては3割くらいしか達成できませんでしたが)そこで試したのがマイズナーの「レペティション」というメソッド。もともとは演劇のワークです。(これは東大・岡田猛研のワークショップで出会った俳優のめぐさんとたけちゃんさんに教えていただいたものです)
なぜ「レペティション」をやったか、意図は3つ。
1)「頭」を外す
2)「身体」に意識を向ける
3) 他者の触発から「自分」を知る
まず第一に、反復のリズムにより理屈で考える隙をなくし「頭」を外すのが狙いでした。しかし、特に1回目はかなりみなさん苦労していました。相手を気遣って言葉が出てこなかったり、巧いこと言おうとしたり、リズムが途切れるのです。ビジネスパーソンは本当に色々「頭」で考えがちです。
マイズナーメソッドは自分の感情をいうのではなく相手の身体への気づきをルールとします。これにより身体に意識をむけることで、さらに「頭」と「自我」を外したいと考えました。
アート・シンキングは「身体」に重要性をおきます。なぜなら、「身体」は「ちがい」を生み出す「変化」と「異質性」の源だからです。
(『ハウ・トゥ・アート・シンキング』13章「 アートは身体的?」より)
が、、、、レペティションを取り入れたのは実は今回が初めて。しかもやってみようと決めたのは10月に入ってから。で、やってみた結果は…
素人では全然ナビゲートし切れませんでした。ここがぐっと入ってるとあとのワークの深さが全部ちがったのでは…という気がするので、次回は演劇の人に入ってもらうことにします…
「自分」ってなんだ?
今回も、とにかく目指したのは「自分」を掘る、ということです。アーティストが作品を作るとき、最終的には「自分」で決めるしかないように、
理屈や外的な評価軸でなく、「自分」で決めることで「自分」を見出すのがアートのあり方だからです。
でも、「自分」ってなんでしょうか?
こちらのnoteでは、「自分」というテーマについて書いていただいています。
養老孟司先生の言葉が引かれていますが、
「本当の自分なんてありゃしない。自分探ししている自分だって、自分じゃないか」
そうなんです。「自分」は「自分」ですし、「自分」がなにか、と考えることは無限後退に陥ります。あるいは、観察者効果というべきかもしれませんが、とにかく「自分」というのは、客観的にこうだ、と捉えられるものではありません。だからこそ難しいのです。
「全部の自分が本当の自分だとしたら、"自分とはなんぞや?"なんてことで悩む必要は無いのではないか?」
とはいえ、「自分」だと思っているものの中には、知らず”誰かの価値観”(=他分)が紛れ込み、「自分」ではないものに支配されていたりします。(「〇〇らしく」という呪縛がたとえばそれです。「マネージャーらしく」とか「男らしく」とか「子供らしく」とか。)
稀代の天才・レオナルド・ダ・ヴィンチは
画家が絵の中に描くのは、自分自身にほかならない(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
という言葉を残していますが、また同時に
自分の判断以上に自分を欺くものはない。(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
という言葉も残しています。
「自分」は自明ではありません。むしろ、欺かれがちなものです。
そしてさらにいえば、不変に存在する静的なものでもありません。
「自分」とは、イデアのように予め原型として静的に「存在」するものではありません。しかしまた、まったく変えてしまえるものでもありません。常に更新され、変化しつつ、逃れようとする度に戻ってくる動的なプロセスなのです。
(『ハウ・トゥ・アート・シンキング』6章「「自分」を欺く3つの罠」より)
ワークショップではあくまで”きっかけ”。アート・シンキング的なあり方に「触発」されてモヤモヤを持ち帰っていただき、あとはそのモヤモヤを持って日々を生き、「仕事」する中で「自分」を見つけていってもらうしかないのです。
「自分」起点は面倒だ?
と、いうことで、本イベントでは「自分」だと思っているけれど実はそうではない部分を剥ぎ取りながら「自分」を掘っていくプロセスを出来る限り目指したわけですが、個人的にうれしいレポートを頂きました。
(註:細かいのですが、「ちがいは善」ではなく「ちがいが価値」というのが僕の考えです。僕のアート・シンキングでやや「真・善・美」アンチなので念の為)
ブログの中にこんな一節があります。
今回のワークショップはかなり疲れましたし、自分が暴かれていくなかで不快になった場面もありました。本来はこの10倍以上の時間をかけてワークを行うそうですが、たぶん耐えられません。本当の自分を知るのにこんなに苦労するくらいなら、いくつかの選択肢からある程度自分に近いものを選ぶという考えに行き着くのもよくわかります。
このコメントはとても本質的で、ある程度「自分」を掘れたからこそなので、その意味ではうれしいものでした。
みんな簡単に「自分」らしく、とか言いますが、それはぜんぜん楽なことではありません。
「自分」らしく生きろ、と言われても簡単ではありません。「自分」というのはみんなのルールに比べると脆弱で、誰かと答え合わせもできないので不安です。近代は封建制から民衆を解き放ち、「自由」を民衆にあたえましたが、同時に「神経症(シンドローム)」を生み出しました。「個の時代」はそんな不安が極大化する時代でもあります。
(『ハウ・トゥ・アート・シンキング』5章「アートは「自分」がクライアント?」より)
しかし、ここから目を逸してしまうことが、むしろ閉塞感を生んでいるのでは、というのが僕の実感なのです。
アーティストは、生皮を剥いだ肉の状態で世界と触れ合いつづけます。アーティストが「炭坑のカナリア」なのは、彼らが「むき出し」だからです。これはとても無防備で、繊細です。かさぶたや皮や殻は、僕らを守るものでもあるからです。しかし、守るための壁は、時に内実を見えなくし、変化を阻む障壁にもなります。
(『ハウ・トゥ・アート・シンキング』5章「アートは「自分」がクライアント?」より)
殻の中にいるほうが絶対的に楽です。そしてもしかしたら、かつてはそれでもある程度”上手く”行ったのかもしれません。
「みんな」のルールや「正解」に従っていれば安定的に生きることができた時代にはそれでもまだよかったのですが、そんな時代も終わりつつあるのです。
「みんな」のルールを当てにしてきた人ほど大海に投げ出される不安に襲われています。僕もそうでしたが、豪華客船にずっと乗っていると自分で潮目をみたりボートを漕いだり泳いだりする力が退化してしまいます。船が沈没しそうなとき、もっとも不安を感じるのは、豪華客船に慣れてしまった人たちでしょう。
(『ハウ・トゥ・アート・シンキング』5章「アートは「自分」がクライアント?」より)
「自分」以外を捨てると、意外とスッキリする
そしてもう一つ、さらにうれしかったのが、こちらのコメントです。
たしかに、みんなのルールや誰かの尺度に合わせることに慣れていると、「自分」に向き合う方が大変です。
しかし誰かの尺度に合わせるのは楽に思えても、ずっとつづけると「自分」を押し殺すことになって閉塞してしまう。こっちのほうがじつはつらい、と僕はいまおもうのです。
「自分」というのは、あなたが思うより、いびつなものです。
それを認め、肯定するというか、許す、というか。
それが出来たとき(殻を剥ぐ瞬間は痛みがあるのかもしれないけど)実は「固さ」がとれて柔らかくなれる、というのが「アート・シンキング」なモードなのだとおもっています。
(日経COMEMO公式レポートはこちら↓)
コリをほぐす
大企業時代の自分もそうだったので心の底から思うのですが(今でも抜けきれてないかもしれませんが)、「あらねば」「ありたい」に囚われて首が回らなくなるってこと、あります。
「アート・シンキング」は、僕にとってはただの理論ではなくて、実体験です。
がちがちとぎゅうぎゅうの外にはたくさんのモヤモヤとワクワクが広がっていることがわかります。世界はもっと多次元的なのです。
アートは、「型」にはまらず、変化する、踊る身体のようでも、詩や歌のようでもあります。
本書は、固まって窮屈になったあなたの頭や身体のコリをほぐすような本を目指しました。
(『ハウ・トゥ・アート・シンキング』「おわりに」より)
今回、実業之日本社さんから出版するのですが、編集の白戸さんから突然メールをもらったとき、正直いって躊躇しました。「アート・シンキング」について本を書く、というのは、なんか逆説的というか、逆効果な気もして。
そもそも「正解」のないアートのあり方を本にするのはミスリードなのではないか。そしてそれはひいてはアートを矮小化してしまうのではないか。そんな懸念もありました。
でも、かつての僕とおなじように肩が凝って苦しくなっている人がいるなら、書くことには意味があるのではないか。自分がアートに出会って、「アート・シンキング」を意識して実践するようになって視野が広がったりコリがほぐれた体験について、自らの体験に即して書くなら無責任ではないし、僕にしか書けない本にはなるのかもしれない。そう思ってどうにか本を書いています。
「アート・シンキング」というのは、アーティストになる方法でもないし、アート制作のためのメソッドでもありません。そうではなくて、生き方のモードのようなものです。凝り固まり、閉塞した日常に空気穴を空ける。読んだ人を揺らすような、「触発」になれる本にできたらと思っています。
「work」は「仕事」という意味ですが、「作品」という意味でもあります。
我慢してやるつらいものではなく、それを通じて「自分」を見出していくような、歌うような、遊ぶようなものになってよいとおもうのです。