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Web3をめぐる「物語」のすれ違い リオタールのポストモダン論から考える

「大きな物語」という言葉を聞いたことがあるだろうか。フランスの哲学者、ジャン=フランソワ・リオタールは、モダンが「大きな物語」に依拠する世界、そしてポストモダンを「大きな物語の終焉」として特徴づけた。

Web3をめぐっては、それを国際競争力の切り札に位置づけたり、経済成長へのエンジンとして期待する議論も交わされている。しかし、Web3の源流であるブロックチェーン技術を生み出した思想と、経済成長や成長戦略は、そもそも同じ「物語」依拠しているのだろうか、というのが今回のテーマである。

大きな物語の終焉

「大きな物語の終焉」は、リオタールの著書『ポスト・モダンの条件』よってポストモダンを象徴する表現として提示された。リオタールのポスト・モダン論は、その後の芸術にも大きな影響を与える理論的基礎の一つとなってきた。

モダンにおいて有効だった「大きな物語」とは、科学がそれ自体の正当性を主張するために依拠する言説のようなものであり、例えば《啓蒙》《富の発展》などがそれらにあたる。知や科学はそれらの大きな物語への貢献として位置づけられ、評価される。それがあって初めて、科学も知もその存在意義が正当化されるというわけである。

自らの正当化のためにそうした物語に準拠する科学を、われわれは《モダン》と呼ぶことにする。(p.8)
その物語においては、知という主人公は、倫理・政治的な良き目的、すなわち普遍的な平和を達成しようと力を尽くすのである。(p.8)

そして、ポスト・モダンとは、(その時代において)誰もが受け入れ、依拠することのできる物語が、その有効性を失った状態、あるいは失うプロセスであると言える。

《ポスト・モダン》とは、まずなによりも、こうしたメタ物語に対する不信感だと言えるだろう。

こうしたポストモダンの考え方は、私も以前アート思考との関連で重要な概念として紹介している。

ポストモダンの中でも重要な概念であるポスト構造主義は、人々の中に暗黙の裡に受け入れられている制度的なフレームや権力構造に疑問を呈し、問い直すことを主眼としており、その思想は現代の芸術作品にまで大きな影響を与えている。

ポストモダンの議論においては、誰もが依拠できる共通の理念が終焉した代わりに、様々な分野(リオタールは「多くの異なった言語ゲーム」と表現している)において、ローカルな理念や価値観が乱立する状況になったとしている。一方で、リオタールはこうしたローカルな理念が「大きな物語」化する可能性についても触れている。

ところが決定者たちは、言語要素の共約可能性とその全体に対する決定可能性とを暗黙のうちに前提とするような論理に従って、インプット/アウトプットの行列式に基づいて、この多様な社会性の雲を統制しようとする。~(中略)~科学的真理と同様に、社会的正義についても、その正当化は、システムの遂行性つまり効率を最適にすることに置かれることになるだろう。

ポストモダンの思想が「大きな物語」に対する疑問やアンチテーゼとして自らを位置づけるがゆえに、それ自体は主流にはなりえない可能性を孕みつつ、ここには、大きな物語の終焉後も、ある理念をユニバーサルに敷衍しようとする力が働くことが示唆されているのかもしれない。あるいは、「大きな物語」は実は終焉しておらず、後に述べる「経済成長」がその地位を占めているのかもしれない。

ポストモダンとしてのブロックチェーン

Web3におけるこれまでのギャヴィン・ウッドの発言は、こうしたポストモダン的な色合いを感じさせるものだ。人々が自然に受け入れている企業によるサービス、経済的成功、企業の権限といったものに疑問を呈し、より良い選択肢があるのではないかと主張する。

ぼくにとってWeb3とは、どちらかといえば、より大規模な社会政治的ムーヴメントとしての側面が強いものです。それは専制的な権威から、より合理性に基づいたリベラルなモデルへの移行を目指す運動です。(ギャヴィン・ウッド、WIRED誌のインタビューより)

このような考え方は、Web3で始まったわけではない。はるか以前のビットコイン初期の頃から、個人の自律性、Self-sovereignty(自己主権)といった考え方が、ビットコインから、砂漠の中でテンポラリな都市を作るバーニングマンの運動まで通底する理念であることが知られている。


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バーニングマン会場の空撮画像。By Kyle Harmon from Oakland, CA, USA - Burning Man. Uploaded by PDTillman, CC BY 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=13296939

これらには、既存の枠組みや制度に疑問を呈し、ゼロから新しい理念や構造、力学を生み出していこうとするポストモダン、ポスト構造主義に通じる思想を見ることができる。

気になる「物語」のすれ違い

ポストモダンが「大きな物語」が終焉した状態だとしても、それに代わる大きな物語は存在するのだろうか。もしかすると、経済成長、生産性、経済的豊かさといったキーワードがその地位をいつの間にか占めつつあった可能性はある。それらに貢献するための下部概念として、効率性、有用性、国家間の競争、企業の成功、経営者の経済的報酬と権限が統合される。

もしこれらが現代のモダン的「大きな物語」だとすれば、それらに対するポストモダン的疑義の提示としてブロックチェーンに基づくサービスや、Web3を位置づけることもできよう。国家に依存しない通貨、国境のないサービス、中央管理者のいない自律分散型サービスしかりである。

Web3界隈の動向は、確かに仮想通貨による巨額の投資利益、ベンチャーキャピタルによる投資、NFT等を通じたアートの高額販売、ゲーム等をすることで対価を得る「X to earn」など、経済活動に繋がるものも多い。従って、Web3に経済成長への貢献を期待するのも無理からぬことである。

しかし、もう一歩掘り下げると、Web3とそれを生み出した思想は、そもそも「経済成長」や「効率性」といったシステムや物語への貢献を目指していたのだろうか、という疑問も生じる。

「Web3で私たちの生活がどう便利になるのか?」「Web3でどれだけ儲かるのか?」といった質問との相性の悪さは、実はこうした物語のすれ違いに起因しているのではないかとも思うのである。


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