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国外における「日本らしさ」の意味ーアートキュレーターとの対話。

今週、ある家電メーカーがもつ場所で小さなイベントをやりました。場所は大聖堂近くのミラノらしい雰囲気のある建物内にある「普通の自宅」を模したスペースです。ここで、京都の「次世代の陶芸家」3人の作品を置いた長テーブルを囲み、イタリアのアートキュレーターの批評を聞き、20人ほどで雑談しました。

開会前の様子。このように3人の陶芸家の作品が並んでいます。

アートキュレーターはコンテポラリーアート、デザイン、クラフトの3つのポイントからセラミックを語れるエキスパートにお願いしました。彼女が上の写真にある作品について批評するわけです。ご覧いただければ分かるように(真ん中の白い皿の詳細は、下の写真の方が分かります)、いずれも用を足すための器というよりも、アート的な表現にポイントがおかれているものです。

いずれも「アート的」な表現の作品

これらの作品に対して、アートキュレーターは「どれも日本らしくて質の高い作品だ」と評します。それにはアートキュレーター以外のイタリア人の参加者たちも頷きます。例えば、上の写真の右側にある白い「骨」のような作品も「日本らしい」というのです。

どうして「日本らしい」のでしょうか?

「この、角を丁寧にとり、表面も滑らかに仕上げる点が日本らしい。テクニックの存在を感じる。現在のヨーロッパのセラミストの作品の多くは、テクニックをこのように際立たせない

アートキュレーターの台詞1

フォルムではなく、作り方と「作り方の見せ方」に特徴を見いだしていることになります。そして、前述したように、この「日本らしい」特徴をポジティブに評価しているのです。日本の職人技が「こんなところまで細かくやるのか!」とかよく話題になるのも、このあたりの「見せ方」と繋がります。

この段階で、ぼくは、一つのことを思いました。日本とイタリアの両方にある「技巧を凝らしたことをあえて隠すことに美点を見いだす」との美学です。

イタリア語にルネサンス期から「スプレッツァトゥーラ (Sprezzatura)」との言葉があり、今もファッションの世界で何気ない風を装った着こなしを、この言葉で表現します。これは同様に日本でも好まれる傾向にあり、「これが匠の技だ!」と強調しないことが粋である、という文化もあります。あるいは装飾よりもミニマリスト的であることを良し、とするのもそうですね。

この2つの似たような趣味がありながら、どうして片方が「日本らしい」と評されるのでしょうか? 再び、アートキュレーターが答えてくれました。

「お互いに技巧を隠そうとする文化が存在するのは、確かだ。しかし、この2つの共通点を大きく分ける分岐点がある。イタリアの表現には、誘惑する、との最終的な意図が潜んでいる。日本の表現には、そうした意図を感じない

アートキュレーターの台詞2

イタリアではseduzioneという「誘惑する」「人を惑わせる」という意識が常に通底している、ということをアートキュレーターは語っているのです。日本の技巧の隠し方に、そのような意図がまったくないわけでもないとも思いますが、程度の差ではすまない距離感をイタリア人は感じる、と話しているわけです。

やや別のアングルで言うならば、性的な魅惑が匂うかどうか、でもあります。「日本らしさ」とは、性的な魅惑とは別次元の世界観を感じさせることであり、それをイタリアの人をして好ましいと思わせる。

もちろん、このことを意識して「日本らしさが好き」という人は多数派ではないと想像しますが、「なんとなく日本の人の表現は無垢そうである」と無意識に思う人は少なくないはずです。日本の人の表現が「静かである」と見られるのも、ポイントは近いところにあるでしょう。要は「心がざわざわしない」。

これが、日本の商品をヨーロッパ文脈のラグジュアリー領域に入れようとしたとき、相性の悪いところかもしれません。1300年代から使われたラグジュアリーという言葉は、もともと性的に溺れるとの意味合いが強いものでした。21世紀に至って日本のラグジュアリー論議が「正しい」方向(「高品質」「文化遺産」など)ばかりを一方的に目指し勝ちな理由でもあるのでは?とアートキュレーターに投げかけてみました。

「そのような理由がないとは言えないかもしれない」

アートキュレーターの台詞3

彼女はラグジュアリーに関するエキスパートではないので、さらに突っ込んだ議論を避けたように思えました。

そこで、ぼくはアートキュレーターにもう一つ、最後の質問をします。そのように日本の文化の特徴を説明してくれ、しかも肯定的に評価してくれて嬉しいです。だだ、あなたのおっしゃることを裏返せば、日本の表現者は戦略的に動くと評価を下げることになります。それをどう考えますか?

「そうですね。私の評価が日本のセラミストの作品を欧州で紹介する際に貢献するとして、彼らの表現の向上に直接役立つかどうかは別の話になる可能性もある」

アートキュレーターの台詞4

これまでぼくは、日本の人(企業)が海外で何かする場合の戦略性の欠如を繰り返し指摘してきました。しかし、インバウンドでの受けが良いと、自分たちの素の姿をそのまま見せれば良いのだとの声が強まります。言うまでもなく、それは、大いに正しい。

ただし、自らの世界観をもう少し違った文化の人にも知って欲しい。そのうえで、コラボレーションの機会を増やしたい。そう思うとき、以上に述べたような自己矛盾ともいうべき壁にぶち当たることは認識しておいて損はないです。

冒頭の写真©Ken Anzai


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