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バズワードとしての「アート思考」 〜アートを「消費」しないために

こんばんは、uni'que若宮です。

やはり「アート思考」が盛り上がってきていますね。

自身も「アート思考」について発信をしてきて、最近はschooで講義をしたり、トークイベントのディレクションやファシリテーターをしたり、よりオープンに対話する機会も増やしているのですが、「アート思考もっと盛り上げれわっしょい!」というためではなく、むしろ逆で、アート思考バブルや消費への危惧があるからです。


「アート思考」がバズることへの危惧

「アート思考art thinking」は、ワーディングがキャッチーで使いやすいのもあり、ややバズワード化しはじめています。「アート」というのはよくわからないわりになんとなくイケてる感じもするので、ファッション的にもみんな言いたいのかもしれません。

そもそも「アート思考」というのはまだ確立した定義やメソッドではありません。「アート」+「思考」という矛盾的でもあるワーディングは、ビジネス界で「ロジカル思考」や「デザイン思考」の限界が見えてきて、さらに新しい思考法として要請されてきたのですが、中身が曖昧なままに「新しい救世主」として急激にもてはやされてしてしまうと、イナゴに食い荒らされるように消費され、飽きられてしまう懸念があります。そしてもしそうなると、それは波及してアートそのものの価値をも毀損してしまう恐れがあるのです。

このあたりの危惧は、こちらでMotionGallery大高さんがおっしゃっていることにほぼ同意です。

最近では「ビジネスマンもアートを勉強すべき」という話があるんですけれども、僕はミスリードかなと思っています。
アートを学ぶことで、なにか仕事に役立つとか、パフォーマンスが上がるという考え方はミスリードと言うか、そういうために存在しているわけではないので。そもそもアートは美的感覚を鍛えるためのものでもないし、あまりにみんながそっちへ走ってしまうと「なんだ、なにも役に立たないじゃん」となって、またアート離れになってしまうのが嫌です。そこの文脈は無視して、あまり役に立たないものとして真面目に向き合うくらいの感じで、広まるといいなという感じです。

ただ、それでも僕はやはりビジネスとアートがもっと接する機会を増やしたいし、その価値を知ってほしいと思っています。


そもそもなぜ「アート思考」にたどり着いたのか

僕自身が「アート思考」という考えを持つようになったのは、何かで勉強したからとかではなく、長らく新規事業で血を吐くほど失敗をしてきた結果でした。

ロジカル思考やデザイン思考も、PEST分析も5forceもプロトタイピングもリーンスタートアップも試して「それでもなぜ上手くいかないのか?」の内省を続けた結果、僕はまず「コアバリュー=ユニークバリュー」という考え方に到達しました。

そして起業家としてそれを実践しつつ、また多くの企業のコアバリューの相談にも乗る中で、イノベーションがうまく起こらない原因に

・社会課題やニーズという自己の外側から出発することの限界
・合理性・有用性を考えるほどコモディティに陥るジレンマ
・「正解」に流れ「自分らしさ=ユニークさ」を見つけられない罠

などが見えてきました。

「課題」「合理」「正解」、これらをベースにした教育を受け続けた末に内化された「思考の癖」。もしくは「思考の惰性」ということもできるでしょうか。

コアバリューのワークショップをすると、実は本当の「自分らしさ」というのはすぐには出てきません。日頃「自分」だとおもっていることは、なにか「借り物」だったりするのです。本当の自分に到達するには、「借り物」の「思考の惰性」を少しずつ剥ぎ取り、掘っていく作業が必要で(それは時に痛みも伴います)、「課題」「合理」「正解」から離れることでもあります。

こういった深掘りをして、本当に実現したいバリューを探していく作業は、かつて建築をしていた時やアート研究をしていた時の経験に徐々に繋がっていく感覚がありました。

アートは「課題」から出発し「合理」的にたどり着く「正解」をつくる作業ではありません。それは内からの「衝動」によって「不確実」な状態で「個」から生み落とされる赤子のようなものといえるでしょうか。アートのあり方とアナロジーで考えれば考える程、見える世界が変わってくるところがあり、今イノベーションに不足しているのは「アート的なるもの」ではないか、と思うようになり、それを「アート思考」と呼んでいたのです。

そのうち、「アート思考」は同時多発的に色々なところで聞くようになりました。時代の要請とでもいいましょうか、同様の問題意識を持つ人が多かった、ということでしょう。


「アート」に「正解」を求めないということ

以前、森美術館の南條館長が、アート作品にまつわるいくつかの解釈について講義をすると、日本の学生は「で、どれが正しい解釈なんですか?」と聞いてくる、とおっしゃっていました。

僕たちは自分たちが思う以上に「誰かがつくった正解」に慣れきっています。

企業内であれ個人の生活であれ、人は日常、ほとんどすでにシステム化され、価値や意味が措定されている「記号的世界」に生きています。学歴や肩書で相手の価値を判断したり、メディアやデータを鵜呑みにしたり。これは「九九」のようなもので、日常的には(思考停止的に使えるので)省エネで便利ですが、一方でそういう「記号的ラベル」に囚われてしまうと、そこからはみ出すものを「分からないもの」として排除してしまう傾向があります。「正解」は便利で安心だからです。

「正解」から離れ、自分にしか根拠を求められないことに向き合っていく、というのは実はとても不安な作業です。これで合っているのか?これで成功するのか?未確定の価値に向かい、そしてその根拠を自分自身の中にしか求められないところにいくのは確定した価値を使うのに比べ効率も悪いし、不安です。

そしてこういう不安に置かれると、人はまた「正解」を求めてしまうのです。

アート思考のイベントなどで質問やフィードバックを受けて感じたことがあります。「成功事例をおしえてください」「具体的にはなにをすればいいですか?」などなど。「アート思考」に「正解」を求めにきている人が結構いる。「アート思考で売上10倍!革新的新規事業はこう作れ!」みたいなタイトルだと集客望めるのではないでしょうか。

ですが、それはむしろ真逆というか本末転倒に思えます。先に述べたように、アートというのはそもそも正解をくれないものです。アートが教えるのはむしろ、「正解がない」ということであり、それに向き合い自分を掘っていくという態度です。

そして、教科書を読んだらアートをつくれるわけではないように、「アート思考」というのも「フレームワークのように確定的な便利ツール」ではありません。むしろ「フレームワークを引っこ抜く」のに近い。

では、アートが「学べないこと」なのであれば、「アート思考」について語ったり聞いたりすることには意味がないのでしょうか?


「触発」というアートの意義

ロジックが「説明文」、デザインが「コピーライティング」だとすれば、アートは「詩」です。同じ言葉をつかっていても、ロジックやデザインとは違い一意の結果には導きません。

アートに出会う時、ひとはその価値や意義について自分の中に根拠を探すしかありません。ロジックやデザインが一意に向かうのに対し、アートは多義性に開きます。それ故、アートに触れた時の結果は計画不可能でコントロール不可能なものです。計画できないものですが、だから役に立たないかというと(いわゆる「有用性」とはちょっと違うかもしれませんが)「触発」して新たな衝動や運動を引き起こす、という意味において価値があるのです。

アートはキレイなものばかりでも、技術的にスゴイものばかりでもなく、観てよかったね!と爽やかにいえるものばかりではありません。むしろなんとも言えない、もやもやした感情になることが多い。それはアートが時に、日常の記号性やフレームワークを剥ぎ取って、独自の価値に入っていくからであり、しばしばその時に既存の価値観との「葛藤」を内包するからです。そしてその「葛藤」をトリガーにして、みる人の中にも、自分の中にしか根拠を言えないような、不安な、「正解のないもやもや」を触発するのです。


だから「アート思考」について学んだり、「アート」に触れたりすることは「正解」をもらうことではなく、ある種「もやもや」道への訓練、のようなところがあるかもしれません。「もやもや」から「正解」に逃げそうになる浮力に抗い、「自分らしさ」にダイブしていく訓練。そしてスポーツにもコツやコーチが役に立つように、その訓練において「詩」や「身体」などアートの様式や実践に触れることでダイブへのヒントが得られることはたしかにあります。(今後のイベントではこのあたりも話したいと思っています)


上手くいくから使う、ではなく、現代だから必要なスキル

VUCAの時代、不確実性の時代と言われます。そんなのいつだって不確実じゃん、という方もいるかも知れませんが、時代は変化しています。

たとえば近代は、あきらかに縄文時代よりは便利ですし、身分で人生が決まっていた封建時代よりは自由です。しかし、そのような個人の自由を手にすることによって「自我」という新しい苦しみや神経症という病気が生まれました。時代は変化します。そして、巻き戻すことはできません。テクノロジーによる情報の増大と多様化は進みますし、多様化によって増大していく現代の不安、というのは確かにあるのです。そしてそれは好むと好まざるとにかかわらず、そうなのです。

ここで朝井リョウさんの言葉を紹介します。

この作品を書いているとき、ある目上の方から「昭和は『男はこう、女はこう』というような、外部からの決めつけがたくさんあった。苦労や抑圧はあったけれど、問題意識を見つけやすいという意味では楽な部分もあった。
逆に平成は決められたレールがないから、自分で自分のことを見つけないといけない。また別の苦しみがあるんだろうね」とお話をしてくださったんですけれど、本当にそう思います。
「対立をなくそう」も「自分らしく」も、考え方はもちろん素晴らしいけれど、同時に、対立がなければ自分の存在を感じられない人の存在が炙り出される。自分らしさとは何か、自分とは何かということを自ら考え続けなければならないことによって、新しい地獄みたいなものも生まれる。


アート思考が「上手くいくか」「役に立つか」というのはややミスリードですし、問いとして筋がよくないかもしれません。「アート思考」を使えばかならず新規事業が成功する、というようなようなものではないのです。それはどんな「〇〇思考」でもそうでしょう。

むしろレールのない多様化の時代・現代では、そもそも「成功」とはなにか?ということを自ら見出し、自らの軸を問い定立していかなければならない時代になってきているのです。それが「解放されたユートピア」なのか「新しい地獄」なのかはまだわかりませんが、この時代にあって、「アート的なるもの」はきっと必要になってくると考えています。

しかし、アートを未確定の価値として扱うのではなく、確定した価値として当てにすることは、「消費」につながります。

ビジネスの短期的な成功のために「アート」が消費されないように。アートとの出会いの機会が増え、アートからもっとじわっとした深い自分への感性を身に着けていけるように。

僕はアートとビジネスをただいっしょくたにして境をなくすることは間違っていると思います。起業家はアーティストである、というような単純な主張は余り好きではありません。そうではなく、ビジネスとアートは別物である。別物であるからこそ、アートとビジネスはお互いをリスペクトしながら触発し合えるところがある。

僕が「アート思考」について発信をし、「アート」と出会う場を増やしていこうとしているのは、そこで出会った人が「アート思考」をきっかけに議論したり、自分をもやっと見つめ直したりしてほしいからなのです。

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