給与もらいすぎと思う人は、手をあげて
ある社長が幹部を集めて、「給与を、もらいすぎだと思う人、手をあげて」といった。あなたは手をあげますか?自分の働きに対して給与をもらいすぎだと手をあげたら、「じゃ、あなたの給与をさげます」といわれるか、「じゃ、あなた、クビです」といわれるかのどちらかだろうと考える。
どうしたらいいかと思案する幹部たちは俯く。しかし社長が「一人も手をあげなかったら、全員をクビにする」といったら、どうなるか。「囚人のジレンマ」である。みんな、手をあげる。自分は標的となりたくない。みんな、自分が正当な評価以上の評価を受けていると何がしか思っているから、自分の地位を守ろうというドライブがかかる。
自分のことは、本当は自分がいちばんよくわかっている。自分の実力・実績以上の評価、権限が与えられていることは判っている。これが「世代間ギャップ」を引き起こす原因の根っこである。
部下に、とても優秀な若い人がいて、「君、なかなかすごいね。今度、登用するよ」といったら、「わたしが登用されたら、あなた、クビになりますよ」と答えるかもしれない時代となった。
あなたは、自分をクビにするかもしれない人を登用できるのか。ある大学で「誰からリストラするのか」のディスカッションで、「最も優秀な人からリストラする」という答えが導かれたのと同じく、そうなる可能性は大きい。
動物の世界は、縄張り(テリトリー)のなかで、年老いたライオンは群れから自ら離れていく。若く強いライオンが組織のトップになったら、年老いたライオンは追い出されて去る。日本でも、まだやれるというタイミングで一線を退いて、隠居や長老という「分」を担う社会システムがかつてあった。
戦後続けられた年功序列が崩れつつある。
年功序列の崩壊とは、なにか。「あなたはこの会社に10年間勤めたから、会社にとって価値がある」と評価されなくなるということでもある。その人の実力を段階、段階で、棚卸し、それに見合った賃金が決められる時代になろうとしている。
年功序列の崩壊は年功賃金の崩壊でもある。
年功賃金の崩壊とは、なにか。たとえば50歳の部長が24歳の入社3年目の若者と同じ賃金となるということを許容しろということ。会社でのパフォーマンスを比較して、「圧倒的に生産性が低い人が圧倒的に賃金が高い」という状態を、日本社会、日本経済は許容できなくなりつつあるということ。
会社を辞めたら、よくわかる。
再就職すると、自分の賃金の低下に驚く。会社に長くいると気づかないが、外に出たらわかる。一般社会の基準からすれば、それがあなたの評価であること、そんなものだよ、と気づかされる。
定年退職して、収入が1/3となった。
では、なくなった「2/3」とは、いったい何だったのだろうか。その2/3は、その人の生産性ではない部分のボーナスであり、年金だった。会社として、その人の生産性よりも高い報酬を支払うことで、会社への忠誠心・ロイヤルティを持続してもらった謝礼でもあった。年功序列の崩壊とは、それが無くなることでもある。
だから自分の会社を平気で否定する人が現れる。パブリックに、SNSで発信する人が出てくる。「王様の耳はロバの耳」と隠れて叫んでいた時代ではなく、自分の帰属する組織を崩壊させるベクトルが向く。
働くということ、会社ということの定義が変わったのである。にもかかわらず今までの働き方、会社の位置づけの延長では、適合不全となる。働くこと、会社とはなにかという本質を再認識して、新たな技術を活かした方法論を学び、仕事に組み込んで時代の流れに適応しなければ、取り残される。