幸せって何だろうと考え続けた7月。
写真はあまりに空が広くて青くて、幸せを感じて撮った1枚です。そんな感じで、7月は幸せについて、いつもどこかで考えていました。
幸せも不幸も、連鎖化しやすい気がする
え、それなら物事全部そうじゃないか、っていきなりずっこけさせてすみません。でもそんな感じしませんか?
幸せなとき。うまくいくとき。
例えば、手前味噌ですが「化粧療法」というものがあるように、お化粧をすることで、気分転換になったり、前向きになる気持ちが、小さな自信となり、誰かに会いたいな、外に出たいななど、どんどん行動が変わっていったりします。ときに1本の口紅で人生が変わる可能性すらあります。
たとえ大きなことでなくても、日常によいサイクルがうまれるのを見るのは、化粧品の仕事の醍醐味です。
突然の入院ですべてが崩れた
逆にうまくいかないときは、全てマイナスに働く。
そのきっかけはある日突然降ってきて、防ぎようがないときもある。
私の場合は、突然の子どもの病気でした。
当日から有無を言わさず泊まり込みの入院付き添いで、結局会社も休職へ。泊まりは短期間で済んだものの、あと数日でも私が体調を崩していたはず。
家事をする気力ゼロ。食事は病院のロビーでコンビニのおにぎりを5分で流し込む日々。(ちゃんとお腹は空くんですわ)
家の中は色んな意味で荒れてギスギスし、でも暮らしをお金で解決せざるを得ず、どんどんお金はかさんでいました。
小児病棟は、年単位の入退院が必要な子もいます。我が家はある程度見通しもついていて、周りの人たちにすごく支えられていたのに、人間ってとてももろいバランスで生きているんだと思い知らされたものでした。
ダークサイドまっしぐら
一度生活のバランスが崩れるとどうなるか。
私は、登下校時の子どもの声が聞こえるだけで気が滅入っていました。他の子は健康なのに、どうしてうちの子は病院にいるんだろう。「なぜ自分だけ?」という思いに駆られます。
コロナ禍でお見舞い禁止でよかった。どうせ見舞いの後は普通に家に帰るんでしょ?「自分は健康でよかった」とか言ってさ、と起きてないことで妄想してしまう。今思えば、完全にダークサイドにいってしまい、どうかしていたことも分かるのですが、その渦中にいると気づけないのです。
「絶対」なんてないと知っていても
「信じれば、絶対救われるから〇〇を信じなさい」
と今言われたら信じてしまうな、と当時思ったりもしていました。
コピーライターが「絶対」を使うことは「効果の保証」であり、薬機法でも禁句。20年前から骨の髄まで叩き込まれていて、「絶対」なんて世の中にはないと分かっているはずなのに(絶対儲かるとかね)。でも誰かに「〇〇すれば絶対大丈夫だから」と言い切ってほしい。
神社をみれば「神様助けてください」と祈り、家には、各地からあらゆるお守りが大集合していました。でも少しまだ冷静さも残っていて「これ、どの神様がかなえてくれるのかな…」と頭によぎり、検査結果が思わしくないと「金返せ」と毒づいていました。(頂き物なのに…)
7月の事件で、幸せを考える
今も様々な報道が続く、7月8日の奈良での事件。
まだ本当の真実はわからない。私たちには一生分からないかもしれない。
犯罪にも同意できない。
でも私が分かるのは、人間はそんなに強くないということ。
突然起こってしまうショックには太刀打ちできないし、突然じゃなくても心がポキッと折れてしまうことがある。
お母さん(親)は絶対的な安全基地であってほしい。
子どものすべての願いでしょう。
すなわち元・子どもである私たち皆=社会は「お母さん」は絶対であってほしいという願望というか幻想というか、をどこか抱いてる気がするのです。
でもお母さんも、ひとりの人間で、昔は子どもだった。
私も縁あって、今お母さんしてるけど、小さい頃は普通の女の子で、今だってそんな立派な人でないんだ。ぐらんぐらんの、下手したらダークサイド。
あの事件のお母さんの、気持ちは分からない。
でも「幸せってなんだろう?」「どうしたらひとは幸せになれるんだろう」とずっと考えてしまうのです。
「幸福学」を読み返した
幸福学は「ひとはどうしたら幸せになれるのか」という学問で、幸福のための4つの因子を、もう一度読んでいます。
しかしここにもありますが、人間はつい長続きしない幸せを求めてしまう。私も自分だけのお金、まだまだほしいです(!!)
そして利他的な人は幸せになりやすいそうですが、ならすべて神に差し出すのは、究極の利他でよいことなのか??頭はぐちゃぐちゃになってしまう。
愛と期待と執着の境界線は難しい
それでも考えると。今自分に属していると思っている地位、お金、家族、パートナー、そして神様も。
自分のものだなんてとんだ勘違いで、結局は人間はそれぞれが一人だとわきまえるべきなのでしょうね。
そこで自分と同一化したり、過度な期待(傾倒)をすると、何か間違えそうな気がします。
でもそれは非常に難しい。
愛や期待や執着って、とても近いところに存在していて、私たちはつい境界線をこえてしまう。
「元気なら、もう他に何もいらない」と心に誓って、その後無事元気に退院した我が子に(まだ色々あるのですが)、今「宿題は、お・わっ・たーのーーーー?!」とツノ出しながらキレてる私は、まったく人間ができておりません。「弱いな、自分。」とせめて声に出すしかないなと思う、今年の夏です。
今月は書くのに迷い、悩みながら(毎月ですが)でした。読んでくださってありがとうございます。こんな月もありつつの、また来月。よろしければ!
ここまで読んでいただきありがとうございます。 読んで、少し心がゆるんだり、逆にドキッとしたり、くすっとしたり。 おやつ休憩をとって、リフレッシュする感じの場所に ここがなれたらうれしいです。