SDGs時代のマネジメントのために気をつけたい、「集団バイアス」と同質化の罠
明けましておめでとうございます。uni'que若宮です。
本年もどうぞ宜しくお願いいたします。昨年末からマネジメントについて改めて色々と考えていまして、今日はこれからのマネジメントで気をつけたいことについて書きたいと思います。
「内集団バイアス」と「外集団バイアス」
これからのマネジメントにおいて気をつけたいこと、それは「集団バイアス」です。
組織やチームは特定の「集団」なので、「集団バイアス」が発生しやすい状況です。また、集団バイアスはデメリットもあるのですが、前世紀的な経営やチームマネジメントではしばしば「利用」されてきたものでもあります。
集団バイアスには「内集団バイアス」と「外集団バイアス」があります。
「内集団バイアス」とは他の集団と比較して自集団の能力を高く評価したりひいきする心理です。「内集団びいき」「身内びいき」とも言われます。
この実験でポイントなのは、見ず知らずの人が・いっときの実験のための・取るに足らないような情報によるグルーピングで内集団の優越を感じてしまう、というところです。
「外集団バイアス」はその逆。自分たちの集団の「外」だと認識すると、その集団の能力を低く評価したり敵対視してしまいます。
こうしたバイアスは事実や評価を捻じ曲げてしまい事実を誤認させるものですが、しばしばチームマネジメントにおいて士気を高めるために利用されてきたのではないでしょうか。
「競合」との戦いを強調したり他部門との成績競争を意識させることでチームの結束力を高める。移民を悪者にすることで国民の団結を促す。こうした「仮想敵」をつくることによってチームをひとつにすることがテクニックとして沢山行われてきました。
しかし、こうした「仮想敵」はしばしば差別や迫害を生み出します。これも「外集団バイアス」によるものですが、「外集団バイアス」には「同質性バイアス」というのがあるのですね。
別の集団の人たちについてレッテルを貼り、十把一絡げにしてしまう。これによって他集団の人たちが「個性や人格をもつひとりの人間」だということが忘れられがちになります。この結果、内集団から外集団への攻撃性が増すのです。過去の戦争の歴史でも、「〇〇人」という外集団レッテルにより排除や虐殺がたびたび行われましたが、そうした差別や排斥は「外集団」の人たちを「ひとりひとりの人間」だと思えなくなるからこそ可能なのです。
「集団バイアス」は自組織の団結を高めるためには便利かもしれませんが、こうした単純化は社会を異質性との対話へと進めるどころか分断に導きます。つい先日も選択的夫婦別姓についてTwitterデモが行われていたのを目にしたのですが、その主張の中には「選択的夫婦別姓を望んでいるのは日本の弱体化を狙う〇〇人」というような言説が多数みられ、本当にぞっとしました。内外をひと括りにした決めつけから出発しては丁寧な議論をできるわけがありません。
いや、でももうさすがに今の時代企業活動ではそんな差別は起こらないでしょ、と思われるかもしれません。しかし、たとえば特定のグループ(性別や学歴、地域など)への優遇やそれ以外の企業の排除というのは結構起こっていることではないでしょうか。(大企業では相見積もりをとった上でもグループ企業への発注が既定路線になっていることは多くあります)
もしくは自社を「内集団」、外注先を「外集団」とみて、とにかく自社の利益だけを優先し不平等な契約にしようとしたり、赤字を押し付けたり搾取したり、というのはないでしょうか?
ひょっとすると、こうした指摘をされても「ビジネス的な優遇は別に問題ないでしょ?仲間内で応援し合ったり自社利益考えて何が悪いの?」と思われる経営者もいるかもしれません。しかし、前世紀であればそれでよかったのですが、SDGsの時代には自社や「身内」だけがexclusiveに得をしたり利益を得て、不利を他者に押し付けたり搾取するような経営は許されないものになってきます。
なぜならそうした「自集団びいき」の経営が、環境や産業のサステナビリティを損なってきた根源だからです。
「内集団バイアス」の黒い羊効果
気をつけるべきは他者を差別する「外集団バイアス」だけでしょうか?
実は「内集団バイアス」にも注意すべきことがあります。
それは「身内びいき」の一方で「身内叩き」とも言える事態が発動することです。
内集団バイアスにおいてはしばしば「黒い羊効果」というのが起こります。
「黒い羊効果」では、「身内(内集団)の好ましくないメンバーは、外の集団の好ましくないメンバー以上に悪い評価を受ける」というのが特徴です。
みたいな感じになってしまう。「ひいき」していたはずの「内集団」なのに、自分たちと同等でないとみるや「叩き」まくって排除してしまうのですね。
さらにこれまで、日本では「謙譲」というのが美徳とされていました。自社や家族など「身内」のことをへりくだって低くいうことで相手への尊敬を示す、というあれですね。
この2つが合わさると「身内に甘い」ことの反作用として「身内にやたら厳しい」という事も起こります。たとえばなにか失敗した時、原因が外部の人だったら許せるのに社内の人だと憤りが強くなり強く叱責するとか、自分の子供だと許せないで怒鳴ってしまう、とかそんな経験はないでしょうか?
「身内に甘い」はずだった「内集団バイアス」が「身内にこそ厳しい」ものになってしまう。この逆説もまた、「レッテル張りによる同質化」によるものな気がします。「うちら一緒」だからこそ同じでないと許せなかったり、厳しくしてしまう。その「異質性」それ自体を排除し、「うちら」の「同質」を保とうとする。
スタートアップなどでも割とよくある光景な気がしますが、事業が軌道に乗り経営陣が「おれら最強」と思いはじめると、ある一定の尺度のみで成果が測られる様になり、その結果チーム内部において同質化が進み、同じような意見や属性をもった人が徒党を組み始めます。そうすると「内集団」の中に異なる意見をいう人や異なる属性の人がいても、「黒い羊」として排斥されることになってしまいます。
黒い羊の排除も前世紀的な経営では効率性や成果主義のもとに是とされてきたところがあるでしょう。なぜなら同質性が高まればそれだけ動きに統一性が取れ、効率的になるからです。そしてこれが「筋肉質」になることと同義と誤解されていることもあります。
異質性を排除すると、短期的な効率性はあがり生産性も上がるように見えます(女性が入る会議は時間がかかる)。しかしその一方で視野がせまくなり、長期的な価値創出やレジリエンスから見ると脆弱になってしまうのです。
とはいえ、これらのバイアスに気をつけるのは想像以上にむずかしいことです。なぜなら「外集団バイアス」や「黒い羊効果」は前世紀的な価値観からするとむしろ「便利」であり、「正しい」と判断されることすらあるからです。「外集団」「内集団」のバイアスをなくすとチームの一体感が損なわれるようにすら思われる。選択的夫婦別姓への反対も「内集団バイアス」を手放すことへの恐れからくるのかもしれません。しかし、こうした一体感や「集団」を保守するために個が自分らしく生きることが犠牲にされ、同質化を求められることはやはり前時代的ではないでしょうか。(こうした時に旧来の価値観に固執し「伝統」を持ち出して反論する方がいますが、個の自由より集団の安定性が優先されるなら、封建制や君主制、奴隷制のままの方がよかった、というのでしょうか。全体主義から個の自由や権利が解放されていくことが社会が成熟していくことだと僕は考えます)
前世紀的な「集団の一体感」やチームビルディングにおける便利な対処法として、「仮想敵」や「村八分」など「exclusiveな同質性」を高める手法が機能してきました。しかし、それは便利さや効率性と引き換えに、inclusiionやdiversityを妨げるものであり、SDGsの時代においては見直されるべきでしょう。
マネジメントの価値尺度自体のアップデートがなされなければ、「外/内集団バイアス」への囚われを脱するのはむずかしいかもしれません。だからこそマネジメントにおいては常にこのバイアスに気をつけていくべきだと考えます。
↓集団バイアスについてはVoicyでもお話したのでよかったら合わせて聴いてみていただけたらうれしいです