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人は、自分のために喜んだり、泣いてくれる誰かがいるだけでちょっとだけ救われる。

北京五輪、女子団体パシュートで転倒した高木菜那選手が、個人種目のマススタートでも、まったく同じ場所で転倒した。

これはこれで衝撃的で、高木選手の心痛を心配もしたのだが、その後決勝に進んだ高木選手のサポートを笑顔で行う姿に安堵した。

他人の失敗を見て「失敗して辛いだろうな」と自分の主観で考えてしまうことはよくある。しかし、それはあくまでこっちの主観であって、本人にとってあれは「つらい失敗」ではなかったかもしれない。ギリギリまで攻めて、チャレンジした上での「思い通りにはならなかったが納得できる結果」だったのかもしれない。こう書いているが、これも推測であり、本当の事はわからない。

人の気持ちを察するというのは、大抵の場合は「察してなどいない」のであって、「こうじゃないかな」という自分の気持ちである場合が多い。それが本人の気持ちと似ている場合ももちろんあるが、所詮他人の気持ちと同じ気持ちになどなれるはずもない。だって、五輪に出るような選手が、これまでにどれほど苦しい思いをしてきたかもわからないような他人がわかるはずがない。

他人の気持ちを察するなんてことは幻想でしかない。おこがましいとさえ思う。

しかし、だからといって、「他人は所詮他人なのであって、知らん」とは人間ならない(そういう人間がいないわけではないが…)。幻想であろうと、勘違いであろうと、何もわかっていない他人の主観であろうと、人は他人の気持ちを「こうなんじゃないかな」と推しはかろうとする。

その推しはかった気持ちが、他人の気持ち(自分が思った相手の気持ち)に同化して、一緒に泣いたり、喜んだりすることが、実は「共感」というものである。

そして、大事なのは、「その共感はもしかして的外れな共感かもしれない」のだが、その「共感の気持ち」に触れた相手もまた他人の幻想として勘違いして共感する場合がある。

「共感」とは「同じ気持ちを共有すること」ではなく、「それぞれが相手の気持ちを自分の中で慮って思うこと」なのである。同じ気持ちになることが重要なのではなく、相手を思うことが重要なのだ。

団体パシュートでは試合後からずっと号泣していた高木菜那選手だが、表彰式のあとの笑顔になった瞬間がある。

これは、他の二人の選手が笑顔にしようとしたのかもしれないと思っていたのだが、どうやら違っていたらしい。

なんと2人の写真を撮っていたカメラマンが、3人のくやしさや、高木菜那選手の辛い気持ちを汲み取りすぎたのか、写真を撮りながら号泣していたらしいのだ。

カメラマンは「すみません」と言って写真が撮れない。それを見て、「いや、そっちが泣くのかー!力が抜けるわ」と、それまで目に涙をためていた3人は涙顔のまま大笑いした。それがこの写真だったそうだ。

動画で見ると、よりわかりやすい。

人間は、自分のために喜んだり、泣いてくれる誰かがいるだけでちょっとだけ救われる。幻想でも勘違いでも的外れでもいいし、たとえ刹那であっても、人のつながりの意味ってそんなところにもある。

泣きたい時に自分より激しく泣かれると落ち着く場合もある。怒っている時に、自分より激しく怒ってくれる人がいると、冷静になれたりする。でも不思議と、嬉しい時に自分より激しく嬉しがってくれる人を見て、嬉しさが半減する人はいない。より一層自分の嬉しさは増す。

ネガティブな感情は分け合えるし、ポジティブな感情は増幅させられる。

そういうものなのだろう。

人と人とは本当にはわかりあえない。でも、わかりあえないからこそ、助け合えるのだと思う。わかりあうことが大切なのではない。人の気持ちをわかろうとする心が作り出す魔法が、相手の辛さを半減させたり、喜びを倍増させられるのだろう。

「どうせ人の気持ちはわからない」などと訳知り顔で何ひとつ察する行動もしない人間より、「いやいや、なんでお前がそんなに泣くんだよ。泣きたいのはこっちだよ」とできる人間でありたいものです。


誰もなしえない技にチャレンジし、惜しくも4位でメダルを逃した岩渕選手に対して、他の競技者が駆け寄ったというのも、そういう気持ちの表れなのだろう。


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