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新型コロナの禍から何を学ぶのか?

2月後半から世界の様相は一挙に変わりました。それぞれの地域でそれぞれの人々が試行錯誤を懸命に続けていますが、この1か月少々の経験で、(医療関係者でも政策の当事者でもない一般人の)ぼくは何を学べたのでしょうか?メモに書いておきたいと思います。

文化とは「日常生活の必要」によって成り立つという考え方があります。その一つの例が、これまでマスクを着用する習慣のなかった欧州においても、この一カ月くらいでマスクが急速に一般化した「文化形成」です。それも、この記事のオーストリアの例にあるように、マスクの医学的効用そのものよりも、ウィルスへの社会的認識を徹底するためのツールとしてマスクが使われていると読める事例もあります。

即ち、文化とは変化するものである。その変化は必要によって生じる。これが新型コロナの禍から学べる1つ目のことです。「あそこには、こういう文化はないから」と訳知り顔で解説する人への警告でもあります。文化はあっという間に変化するのです。もちろん変わらない文化もあります。だが、すべての文化を頑固なものとおさえ過ぎないことです。特に、今のような緊急事態において文化を「障害」としない。これは1つ目のレッスンとして頭に入れておきたいです。イタリアの下記の「意味のイノベーション」の紹介も、この記事にはあります。

死者数が世界最多のイタリアでは、マスクに対する意識がこの1カ月間で「なぜそんな変なものを着けるの」から「社会的に着けなければならない」に変わった。

2つ目に学ぶのは、現在起きている現象を理解するに、適切な情報を選択する重要性です。ぼくは医学についてまったくの素人です。新型ウィルスについて「エボラ熱などとはまったく反対の性格をもち、感染力が強く、症状の出ない例も多い。しかし、症状が出た人の一部は急速に重症化する確率が高く、治癒までの日数もかかる。その際は集中治療室や人工呼吸器、それらを使えるスタッフが必要で、それらへの負荷が集中する。しかも、やっかいなのは、この現象が局地的(いわばゲリラ豪雨的に)に生じ、それもどこが局地になるか想定しずらい」程度の理解しかありませんが、この知識が間違えでなければ、各国のある特定のエリアでおきている現象に対して、国別の一般データ比較はあまり意味がないはずです。

例えば、上記の記事に各国別の1000人あたりの病床数のデータが引用されています。しかしながら、問題は米国であればニューヨーク市であったり、イタリアであればロンバルディア州のベルガモ市であったりのデータがないと説得性に欠けます。これらの地域で病床数が、集中治療室が、人工呼吸器が、それを扱えるスタッフの数が焦点になるはずです。幸いにして、じょじょにそのようなデータに基づいた記事も多様なメディアで出つつあります。だからこそ、誤解を生みやすい安易な国際比較データの掲載は控えるべきではないかと思います。

3つ目は、期待するほどに人は他人の例を学ぶものではない、という点です。感染拡大の各国日数差を使い、先行国の失敗・成功事例に学ぶケースがないわけではないですが、3月13日、イタリアが全土を封鎖して数日経て書いた以下のなかで、イタリアの元首相のレンツィの掛け声「我々の失敗を他国は参考にしてくれ」を紹介しましたが、十分に他国の政策に反映されたとは言い難いです。どこの国でも「我々のアクションは遅かった」と反省しています。

つまり、いずれの国においても、初動では失敗しやすいことが明白です。その要因の第1は、多くの人は「対岸の火事」と他国の災難を見ているからです。これだけインターネットによってグローバル化を謳歌したかに見えた世界であっても、距離的に遠い地域のリアルな苦境を自分事に思う人は少ないのです。もちろん、一部の専門家や勘の良い人たちは「自らに災難が降りかかる」と気づいていましたが、その状態で外出禁止令や封鎖を政府が決めるのは、独裁国家でもない限り、かなり無理がある想定だと考えます。失敗する要因の2つ目です。

それでもフランスなどはイタリアの失敗例から早めにアクションをおこしたとみえるし、多くの国民はイタリアの惨状を見聞して厳しい規制を受け入れたように、ぼくの目には見えました。だが、それでも世界を鳥瞰的にみて、先行国の経験は十分に活用されていないと思います。ですから、初動では残念ながら失敗するのは当然であることを踏まえ、どのように早いスピードで挽回を図るか?が、政策を決定する人たちの力量ではないでしょうかこれが学べる4つ目のことです。

さて、これまでの点を踏まえて、以下の文章を読んでみてください。3月27日、ハーバードビジネスレビューのサイトに興味深い記事が掲載されました。経営学者のGary.P.Pisanoの分析です。新型コロナに対処するイタリアの失敗から学べることは何かを論じています。

イタリアも中国、韓国、台湾、シンガポールなどの経験を、「システム」として学んでいなかったことを指摘していますが、もっと注意すべきなのは、イタリアが州ごとに違った政策をとっていたからこそ、それぞれの州がお互いに学び合えたはずなのに、それができていなかったのが反省点としてあります。欧州各国が学んでないと嘆く前に、同じ国のなかでさえ学習が不足していたのです。

イタリアでは北部イタリアが最大の震源地ですが、そのなかでヴェネツィアのあるヴェネト州とミラノのあるロンバルディア州の2つの州(イタリアのGDPの3分の1を占め、所得や医療レベルも欧州の上位にある)を比較すると、感染者と死者数において、ヴェネト州の方が圧倒的に優秀な成果をおさめています。3月26日時点で、人口およそ1千万人のロンバルディア州において約3万5千の感染者。死者は5千人。一方、人口が半分の5百万のヴェネト州は、7千の感染者に287人の死者です。この2州は感染タイミングにさほど日数差がないのに、です。

もちろん人口規模の差が意味するところは大きいですが、この記事では、両州の政策の取り方の違いも、状況の大きな乖離をつくったと書いています。封鎖、外出禁止令、社会的距離などのアクションは同じですが、ヴェネト州の方が、ロンバルディア州よりも積極的な手を打って出ました。それらを要約すると下記です。

1、早期の段階で、症状がでているケース、症状が出ていないケースの両者に広範囲に検査を行った。
2、潜在的に陽性と想定される人たちへのトレースを行った。陽性とされた人の家族、近隣の人たちへの検査。検査キットがない場合は、それらの人たちの自主隔離。
3、自宅での診断と療養の重要性の周知。可能な限り、検査サンプルは直接、州や地元の大学のラボに送付。
4、医療従事者や社会生活の運営上欠かせない人たちの健康をモニターし、かれらを守ることに特別な努力。養護施設の介護者やスーパーのレジ、薬局、(児童などへの)保護サービス従事者も対象。

他方、ロンバルディア州はローマの中央政府の設定したガイドラインに従い、症状のある人への検査に集中し、検査数はヴェネト州の半分にとどまっています。ヴェネト州のような積極策に出なかったとの説明です(ぼくは、この部分、「積極策に出なかった」のか「現実として積極的に出られなかった」のか、知るすべがありません)。

結果として、「コミュニティ中心」アプローチをとったヴェネト州の方が病院への負荷は避けられ、大幅な感染の拡大を防げたとしています。この記事のなかで引用されているロンバルディア州の震源地であるベルガモの病院が教訓としている内容をみると、この政策の差についての理解が深まるはずです。ベルガモは人口12万人の自治体で、3月21日時点、4305人の感染者がいてイタリアでもっとも多い数でした(前述のハイパーリンクをクリックすると、他都市との比較のチャートがあり、いかにベルガモが打撃をうけたかがわかります)。

この都市にあるPapa Giovanni XXIII 病院は、900の一般病床と集中治療室のベッド数が48の施設です。一般病床の30%、集中治療室の70%が新型コロナの患者で埋まる、という比率が彼らにとっての適切な数字でした。しかし実態はその比率を大幅に超えてしまい、悲劇が続出したのでした。この病院に限らず、近隣の病院も同様の事態に陥ってしまったのです。

そこの医師たちが今、次のように訴えています。

パンデミックにおいては、患者中心のケアは適切ではなく、コミュニティ中心のケアに置き換えなければいけないCovid-19への解決は、病院のためだけでなく、すべての人々へのものでなくてはならない。経済的に豊かなロンバルディア州で広がった大きな災難は、どこでも起こり得る。震源地となった病院の医療従事者は、次のパンデミックに備えた長期的プランを必要としている。

「目の前の患者を救え!」という平時の方針については十分に備えがあっても、爆発的な感染がおこる状況へのポリシーやナレッジまたはノウハウがまったく欠けていたと気づいたのです。病院内だけの運営に限らず、病院の外の地域とのコミュニケーションや政策決定者との調整の指針が充分ではなかったわけです。

ベルガモの医師たちもパンデミックにおける「コミュニティ中心医療」にパースペクティブを変更する重要性を認識すると同時に、イタリア人感染者第1号の確認から1カ月を経てやっと、ロンバルディア州や他の州も「ヴェネト・モデル」を部分的にでも採用をはじめたようです。学習の必要性を理解するに何と時間がかかるのか!とため息が出ますが、これは我が身を振り返っても、そうだろうなあと思います。ただ、そんな諦念がパンデミックでは言い訳にならない、ということです

この言い訳を避けるためにはデータの収集とその共有が大切ですが、イタリアの反省点は初期において、そのデータの指標が各自治体の間(あるいは行政と病院の間)で整合性が取れておらず、どのアプローチが「効くか」のエビデンスがとれなかったとのミスをPisanoは指摘しています。医療レベルは、往々にしてマクロ、つまり国や州のレベルで把握されがちですが、同じ行政単位内でも質はさまざまです。よってミクロとマクロの情報が共有されたうえで、状況によってリソースの配分を決めていかないと失敗するわけです。

以上がぼくが1か月で学んだことと、ハーバードビジネスレビューの記事の一部要約です。ぼくは医療分野についてまったくの素人であるし、政策を判断する立場にもありません。ですから、当事者でもないぼくが、この1か月で学習したことなどたかがしれています。ただ、世のなかを揺り動かしている大きな現象を見るにあたって、今までより少しはマシな視点がもてたような気もします。あくまでも「気もします」程度ですが 笑。

最後に。先週後半よりイタリアの新規感染者数は明らかに下降傾向にあり、そろそろ今の移動制限をじょじょに解除する可能性を議論している、との報道記事があります。今月後半か来月前半には娑婆をもう少し堂々と歩ける日が来るでしょう。というわけで、1カ月、隔離生活のなかでいろいろと考えてきたことを自分なりの糧ともしながら、次のステップへの準備に取り掛かりたいと考えています。

<4月5日の追記>

FTの本日の記事にヴェネト州とロンバルディア州の差異に関する記事があったので、紹介しておきます。







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