宝塚問題に考える日本の「外と内」
宝塚歌劇団の女性が亡くなった事件をきっかけに、歌劇団という組織の文化やガバナンスの有効性が問われている。子供のころから宝塚劇場に親しんだ一ファンとしても、震撼(しんかん)とさせられる展開だ。
パワハラを否定する歌劇団と遺族の主張は大きく乖離(かいり)するものの、組織の閉鎖性が災いし、劇団員が命を落とすまで追い詰められたという構図は想像に難くない。海外に住む日本人の友達が、日本社会に特徴的な「外と内」という概念が、組織の中で個人が窒息する悲劇の根底にあることを鮮やかに説明してくれた。
海外から見ると日本人は礼儀正しく、他人に優しいと褒められることは多い。ただし、それは「外」に対して-という前提が付く。外国人ツーリストはもちろん、自社以外の組織に属する人にも、少なくとも表面的には「丁寧に接しよう」という意識が働く。
一方で、「内」に対しては、「外」に対する微笑の反動なのか、とても厳しいことが多い。外では愛想笑いをしながら、自分の部署に戻れば怒鳴り散らす、外では優しい親を演じながら、家族だけになれば一変する、などの事例を経験した人は多いだろう。
もちろん、「外と内」の区別は日本人に限ったものではない。しかし、日本社会が狭い村社会を出発点にしているせいだろうか、「外」と「内」に対する態度の落差が大きいのが日本だという友達の指摘は、腑に落ちるものがある。日本人として、言葉を含め文化を共有する国民が大部分なのに、逆説的に人為的な壁を重んじているようだ。
「外と内」の区別が所属組織へのロイヤルティーを高めたり、閉じた徒弟制度によって長期目線で人を育てられたり、その結果が肯定的に働くこともあるだろう。しかし、組織の自浄作用や人材の多様性促進という視点からは、非生産的である。実際、芸能界でも学校でも実社会でも、組織の圧力に窒息するパワハラ事象が多いのが昨今の傾向だ。
日本社会が内包するこの見えない伝統にあらがうには、外部と人材交流するなど適度に組織の「壁」を低くし、ガバナンスに外の目を入れていくことが必要だ。個人としての自己防衛には、自分が属する世界を狭く組織に規定せずに、広く足場を持っておくことが有効だろう。組織人である前に、ひとりの個人としてのアイデンティティーを確立する努力が必要だ。
宝塚音楽学校の校訓は「清く正しく美しく」だが、これは「外」に対する態度のみならず、「内」にも正しい態度であってほしい。