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コミュニティの歴史から読み解く「家族像」の変化~「理想の家族」はどこにいるのか?~

 Potage代表取締役 コミュニティ・アクセラレーターの河原あずさです。人と人をつなげ、それぞれの力を引き出していく場がコミュニティである、そう信じて組織のコミュニティ化や、事業やサービスのコミュニティづくりのお手伝いをしています。

 さて、今日はそんなコミュニティの最小単位である「家族」について考えてみます。こんなお題が日経COMEMOさんから出ているのです。

  昨年12月に結婚し、来月に第一子が生まれる予定の、家庭つくりたてほやほやの自分が「理想の家族」について語るのはおこがましいとも思いつつ、コミュニティの専門家として、コミュニティの歴史を通じて家族と社会、家族と人々との関りの変遷を整理することはできるなと、この記事を書くに至りました。

 たとえばこのエッセイなどは、現在の家族観を象徴しているように見えます。

 小説家の方による情緒的な表現が並びますが、彼女の問いかけはまさに、今回のお題である「理想の家族」についての問いかけですよね。

 このエッセイのメッセージの肝は「家族像が多様化し、人それぞれになってきている」ということです。これは、選択的夫婦別姓に関する議論や、LGBTQのみなさんをめぐる結婚制度に対する議論ともつながる、本質的な問いかけです。

 しかしこのような情緒的な問いかけが届かない層も、世界には根強く存在しています。選択的夫婦別姓制度や同性婚の議論が何度も見送りになり、立法機関や政策サイドでこれらの議論が活性化しないのは「古くからある(主に家父長制を軸とした)家族観」を根強く持っている方が意思決定者の中に少なからず存在しており、家族観の多様化という現実との乖離が加速していることが原因ではないかと考えられます。ちょっとした価値観の分断が起きている、と言い換えてもいいかもしれません。

 このような古くからある価値観と現状が乖離している状況において大事なのは、情緒的に語るだけではなく、それと同時に冷静に現状を分析しながら、社会としての現実的な最適解を探っていくことです。そして、コミュニティの歴史と家族のありようの関係性を整理することは、この議論の入り口としてとても役に立つと私は考えています。

 「理想の家族はどこにいるのか?」そんな問いに対して、コミュニティの歴史を解説しながらひも解いていこうと思います。まずはコミュニティの歴史について変遷を解説し、そのあとに、コミュニティと家族の関係性の変化を観つつ、家族のありようについて考えていきます。長い文章ですが、お付き合いいただけますと幸いです。

コミュニティの歴史1:ムラ・コミュニティ


 人類が長い歴史の中ではじめて生み出したコミュニティが「ムラ・コミュニティ」です。後から詳しく解説しますがこの「ムラ・コミュニティ」は旧来的な家族観と密接にかかわるものであり、まずはそこからひも解いていきましょう。

 ムラ・コミュニティは「地縁」や「血縁」など強いつながりを軸とした原初的な集団です。同質性を重んじ、共通する規範を守ることを重んじます。規範を破るものを、ムラから追放することもありえます(村八分)。同質性を維持するために、外にはあまり自身のコミュニティを開かない特徴があります。

 「ムラ・コミュニティ」はあらゆるコミュニティ観の基礎となる重要な考え方です。「ムラ・コミュニティ」を軸とした地域コミュニティは人々の生活に重要なものとして、世界中に現在も残っています。特に都市部ではない地方各地においては、ムラ・コミュニティが健全にまわり、活気づいているケースも見られます。

 例えば、東日本大震災においては、地域コミュニティの結束が、防災や復興に寄与した一面もあります。地域の安全性を高めるのに「ムラ・コミュニティ」の概念は、とても重要なものとして現在も機能しています。

 なお詳しい説明は省きますが、日本において住民管理の礎となっている「戸」すなわち世帯を単位として状況把握および管理する「戸籍制度」は、この「ムラ・コミュニティ」の価値観を軸に成立していると解釈することもできます。(ちなみに2021年現在、戸籍制度を有している国は日本、中国、台湾のみとなっていて、世界的にみるとマイナーな制度となっています)

コミュニティの歴史2:都市コミュニティ

 歴史上、ムラ・コミュニティの姿を大きく変えた出来事が「産業革命」です。資本家が労働者を集めた結果、ムラから飛び出た人間たちが集まる「都市」が誕生しました。

 かつて自身を守ってくれた、血縁や地縁などの強い規範から開放された都市生活者たちは、それに代替するものとして「ご近所付き合い」を元にした、近代的なコミュニティを形成するようになりました。これが「都市コミュニティ」です。

 「ムラ・コミュニティ」の項で示した通り、地域コミュニティの結束は、地域の安全性の向上に寄与すると言われており、都市においても安全に暮らしたいという考え方が、都市コミュニティの形成につながったと考えられます。また、ムラのような強い規範には戻れないが、かといって緩やかな規範を周囲の人たちと共有したいという本能が、都市コミュニティ形成のモチベーションになったのかもしれません。

 現在の保守的な層やシニア層のみなさまが一般的に持つ「家族」についての考え方は、この「都市コミュニティ」と「ムラ・コミュニティ」がベースになっていると私は考えています。特に明治維新後の近代国家確立の段階で、既に都市とムラが併存していた当時、「戸(世帯)」を制度的に定義し、住民管理を整備したことが、現在の家族の捉え方に大きな影響を与えているように思えます。

コミュニティの歴史3:課題解決コミュニティ

 近代において成熟した都市コミュニティですが、インターネットやソーシャルメディアの誕生以降、コミュニティに更なる変化が起きます。特定の問題について問題意識を持つ人たちが、ネットワークを通じて発見しやすくなったことで「一緒にその問題を解決しよう」という動きが生まれてきました。結果誕生したのが「課題解決コミュニティ」です。

 2000年代のインターネットやソーシャルメディアの普及に伴い、近しいテーマにおける身の回りの問題を解決したい人たちが、ネットを通じて集まりNPOを形成したり、プロボノという言葉に代表される、自身が問題意識を持つ社会課題(教育、子育て、政治、地域活性などなど)に対して行う課外活動が活発になってきました。家庭、職場につぐ活動の場所を意味する「サード・プレイス」という概念も広がってきました。

 課題解決コミュニティは、社会に「危機(クライシス)」が起きたときに広がる傾向があります。日本で広まるきっかけになったのは、2011年3月11日に発生した東日本大震災でした。震災を契機に、震災復興や、地域の新しいつながりづくりを目的としたコミュニティが多数登場しました。

 アメリカにおいては、2001年9月11日のニューヨークの同時多発テロという「危機」が重大なきっかけになりました。この事件を契機にアメリカで生まれたサービスが「Meetup」です。Meetupは、ニューヨーク出身の起業家・スコット・ハイファマンがテロを目の当たりにしたのをきっかけに生まれました。彼はアメリカの市民文化を形成していた古き良き「都市コミュニティ」が崩壊しつつあることにテロ事件を経て気づいたのです。隣近所にテロリストが住んでいるかもしれない状況をつくったのは「対面で人が会話できるコミュニティがなくなってきている」現状にあると考えた彼は、ある問題意識に応じて同属の仲間を集めたオフライン(対面)の集まりを「Meetup(ミートアップ)」という造語で定義し、ミートアップを立ち上げ集客できるプラットフォームサービスを立ち上げました。ミートアップはその後、世界中に広がり、コミュニティを形作る大事な概念として定着しつつあります。

 ソーシャルメディアの発展は、コミュニティが抱える問題意識の発信力の強化にもつながりました。発信にひかれて集まる人も増え、コミュニティ活動への敷居が下がり、社会への影響力も増してきました。コミュニティの持つ力は「課題解決コミュニティ」の時代に強まったのです。

コミュニティの歴史4:自分たちごとコミュニティ

 もちろん「ムラ・コミュニティ」「都市コミュニティ」「課題解決コミュニティ」は現在においても、多数存在し、人々の生活を支え続けています(それぞれの要素が混ざった、ハイブリッドなコミュニティも多く存在します)。一方で「こういう活動をやりたい」という発信がしやすくなり、自分の想いに共感する人を集めやすくなった影響で、2010年代中盤から後半にかけて、これらのコミュニティの多様性が増してきました。

 その結果生まれたのが、私が「自分たちごとコミュニティ」と呼ぶ集団です。

 この数年、さまざまなコミュニティを運営している人たちの話を聞き、自身でも様々なコミュニティ活動をサポートするうちに、1つの事実に気づきました。それは、コミュニティをつくりながら活動している人たちが、ある共通の発想を元にして、行動していることでした。

 「私はこうしたい(こうありたい)。実現したら、きっとたくさんの人が喜んでくれる。だから仲間になってほしい」

 主語が「私」であることと、「きっと喜んでくれる」という風に、直接的に課題を解決することで社会に貢献するのではなく、自身のビジョンを実現して誰かに喜んでもらうことで、めぐりめぐって世の中はよくなるはずだというある種の「妄想」が基礎になっていること、能動的に妄想を実現するプロセスを「楽しんでいる」ように見えること、そしてこのビジョンが、時代や状況の変化によって、少しずつ変化することもあるのが彼ら彼女らの特徴です。しかし、一定の理由づけは示され「根拠ある妄想」がきちんと発信されています。その趣旨に賛同した人たちが集まって、コミュニティを形成しているのです。

 元々の課題解決コミュニティは、コミュニティ活動をする理由を、社会課題や環境など「外的要因」に求めます。しかし、今増えてきているのは「自分たち=内的動機」を軸としたコミュニティなのです。「この課題を解決すれば世の中はよくなる」ではなく「自分たちのやりたいことやありたい姿が実現できれば、きっとみんなが喜んでくれる」という発想で成り立つのが、現在増えてきているコミュニティのあり方なのです。

多様化する「自分たちごとコミュニティ」

 そして、コロナ禍により訪れた「オンライン化」の波はフィジカルな制約を取り払うことで、「どこにいても共感するコミュニティに参加できる」状況を生み出しました。自分の「一緒にやりたいこと」を世界中に発信することで、場所を問わず仲間を集めることが可能になったのです。この「外とのつながり」が、ますますコミュニティの多様化を促しているように見えます。

 例えばどんなコミュニティが存在するでしょうか。ここでは「母親アップデートコミュニティ」を例として紹介したいと思います。

 ネット媒体の収録で「母親をアップデートするコミュニティを」という話が盛り上がり、観覧席から主宰の鈴木奈津美さん(なつみっくす)さんが挙手したところからはじまった、母親たちがそれぞれの生き方をアップデートしていく場です。当初はリアルな集まりを中心に活動していましたが、コロナ禍を経てオンラインでの活動が加速し、今では海外在住の日本人ママも参加するコミュニティになっています。

 「母親にまつわる固定観念、同調圧力、自己犠牲による孤育ての課題を解決する」とホームページに記載されていますが、興味深いのは、「自身のアップデート」を起点とした活動方針が貫かれていることです。何度かなつみっくすさんをゲストにお招きしてコミュニティのお話を伺いましたが、その根底には、なつみっくすさん自身の「自分事としての悩み」を解決したいという「個人的動機」があるように感じました。

 「個人的動機」が個人に閉じていないことが母親アップデートコミュニティのポイントです。この個人的動機を外に発信し、同じような動機を持っている仲間を集め、悩みを「自分たちごと」化しているからこそ、コミュニティは着実に成長し、軸をブラさずに行動できているのです。

コミュニティの変化が生み出した「疑似家族関係」

 「課題解決コミュニティ」「自分たちごとコミュニティ」は、非常に現在的なコミュニティですし、コロナ禍以降ますますその存在意義を強めていると実感しています。

 では、現代人がなぜこのような「新しいコミュニティ」を必要としているのでしょうか?私は「かつてのコミュニティにおいて"つながり"を担保していた"家族"という関係性の代替である」という仮説を私は持っています。

 「ムラ・コミュニティ」を形成する軸となる概念が「家族」です。世帯や世代間の境界線が薄く、隣近所との互助が成り立っているのも特徴です。実際、育児や労働はムラの中で分担され、家父長制的な考え方を軸とし、規範が存在する中でお互いに持ちつ持たれつの関係性が成立していました。

 一方で規範や関係性を維持する弊害として、内と外との境界線は厚くなり、異質な存在を比較的排除しようとする傾向が強くなります。ここになじめない人たちが仕事のある土地へと集合していった結果、都市化が進んでいったのではと考えられます。

 都市コミュニティの家族単位を象徴する言葉が「核家族」です。ムラが世帯同士の境界線を薄くし共同体として家族を形成していたのと比べ、都市においては世帯ごとの境界線が明確になりました。その分、内と外との境界線は薄くなり、都市には異なる文化を持つ人々が様々な土地(ムラ)から集まり、結果、ある種の多様性を担保するようになったのです。

 都市コミュニティにおいて生まれた「ご近所づきあい」というコミュニケーションは、世帯毎の境界線は明確につくりながらも、隣近所に誰が住んでいるかを把握することで、自分たちの生活の安全性を担保するために生まれた文化なのではと私は考えています。

 しかしこの「ご近所づきあい」もだんだんと廃れていき、核家族はますます「内と外」の壁を厚くしていきます。しかし安全性を高めるために築き上げた壁は、同時に外の世界と職場など最低限の場所でしかつながっていないことに起因する「孤独感」を生み出します。

 その結果つながりを求める人たちが生み出したのが「ご近所づきあい」の進化系である「課題解決コミュニティ」でした。近所つきあいが機能しなくなったのなら「隣近所に住んでいる」という共通項とは別の旗印(みんなが課題に持っている事象)を用意して集まる第三の場所を用意しようという発想で生まれたものだと言えます。

 そして現在起きているのが、この旗印の多様化です。かつては「社会はこうあるべき」と立てられていましたが、この数年「私はこれを実現したい!共感する人はこの指止まれ!」といった風に、自分ごとが軸となって立てられているものが増えているのです。オンライン化が進み、ますます自分が共感する旗印が見つけやすくなり、同じ理念、価値観、課題意識を持っている人との関係づくりをしやすくなりました。

 こうして生まれた人間関係は、「新しい家族」とでもいうべき、ゆるくも信頼感のある共同体意識を生み出します。

 血縁や地縁などのフィジカルなものではなく「価値観」という実態のないものを通じてつながるため、その関係性は非常にゆるく、軽やかです。価値観があわなくなれば離脱すればいいし、別の価値観があうコミュニティを見つければいいわけです。幸いにしてコミュニティの数は増え、自分と価値観の近いつながりを見つけやすくなっています。ますますコミュニティを行き来する人々の流動性は上がっています。

 一方で「価値観」でつながる人間関係は、時間を飛び越えて一気に深まる傾向があります。実の家族にも共有できない悩みをコミュニティ内で共有したり、価値観のあう人たちとのつながりを通じて「ここに存在してもいいのだ」という肯定感を得ることもできます。いいコミュニティほど価値観ベースの交流が促されることで心理的安全性が高く、それが場の「信頼感」のよりどころになっているのです。

 「遠くの親戚より近くの他人」ということわざもありますが、コミュニティに属することで「血のつながった親戚よりも、近くの他人よりも、価値観のあったどこかにいる他人」という状況が生まれます。血縁でつながる「家族」とは違う、軽やかかつ心理的安全性の高い「一緒に現代を生き抜くための共同体」としての「疑似家族関係」がそこには存在しているのです。

絶対的な「理想の家族」は存在しない時代に

 「家族」について語るときに複雑さを昨今増している原因は、「ムラ・コミュニティ」そして延長線上の「都市コミュニティ」があいのこになっている近代的な家族観を重視する人たちが多数存在する一方で、価値観を元にゆるく軽やかに深くつながる「新しい人間関係」を重視する人たちの数が増え、結果議論がかみあわなくなっているからではないか。私は個人的にそのように考えています。

 後者の人たちにとっては、それぞれのコミュニティで自分の居場所を確保できているため、血縁・地縁でつながる「家族」関係の価値が相対的に落ちているわけです。その人たちに「旧来的な家族像の大事さ」を説いても、ピンとこないのは当然のことのように思えます。

 大事なのは「家族観」そして「家族を単位としたコミュニティ観」に大きな変化が起きていることを社会全体が認め、旧来的な家族像を基礎にして成立している現状とのギャップを埋めていくことではないでしょうか。選択的夫婦別姓制度やLGBTQの婚姻制度にかかる議論も、この「価値観のギャップ」をまず認めて、肯定も否定もなく、こういったコミュニティ観の変化があることを(特に否定的な見解を持つ側の人たちが)ありのままでとらえることからはじめないと、一切前に進まない気もしています。

 家族に対する価値観、コミュニティ観が急速に多様化している今、「統一された理想の家族像」を描くことは不可能な世の中になっています。それぞれの人たちが、居心地のいいコミュニティを選択し、そしてそのコミュニティ観にあった家族像を描きながら、それぞれの大事にしたい価値観を軸に生きているというのが実情ではないでしょうか。

 「それぞれの価値観を認める」ということは「それぞれの理想を尊重する」ということと同義です。いささか逆説的ですが「絶対的な理想の姿は存在しない」という前提に立つことが、それぞれが「理想の家族」「理想の自他の関係性」を築いていく唯一の方法と言えるのではないでしょうか。整理してきた、人々とコミュニティとの付き合い方の変遷は、そのような仮説に対して、裏付けを与えてくれるのではないかと、私は考えています。

 ※こちらの原稿は、拙著(共著)の執筆の際にいろいろな流れでカットされた原稿の一部をアレンジして執筆しました。もしご興味を持った方は「コミュニティづくりの教科書」もぜひチェックくださいー!

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