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「男とはこうあるべき」を否定しているようで「男とはこうあるべきだと思わないでいるべき」という別の規範の強制

11/19は国際男性デーだったそうで…。

「一家の大黒柱であらねばならない」といった考え方による男性の生きづらさを考えようという動きが出てきた。

などと記事に書かれていますが、よく記事を読んでもわからないのだけど、男性の育児休暇取得のことばっかり書かれていて、それこそ「男は結婚して一人前だ」という前提のもとでなんやかんや議論されているようで非常に不愉快。「男っていうのは結婚して子がいるペニスを持つ生物だけ」を指すのですか?

結婚していようがいまいが、子がいようがいまいが、辛さを抱えている人はいる。何もこれは男性に限った話ではない。そもそも女性デーとか男性デーとか分けてる時点でどうなの?という疑問しか感じない。

この記事の中で、男が「生きづらさ」を感じることについてのアンケート結果が紹介されています。記事だとわかりにくいですが、以下が調査元のリリースです。

その中に、全年代合計の「男の生きづらさを感じる」ランキングの表があったので引用させていただきます。

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「力仕事や危険な仕事は男の仕事という考え」「デートでは男が奢るべきという風潮」「男は定年までフルタイムで正社員として働くという考え」がベスト3で、5位には「男は弱音を吐いたり、悩みを打ち明けるのは恥ずかしいという考え」がきている。

これを額面通りに受け取れば、こうした男が生きづらいと感じる考えの部分を否定すれば、男は生きやすくなるのか?という話だと思うが、要するに「力仕事も危険な仕事はなくていいよ」「定年までフルタイムで働かなくていいよ」「弱音吐いたりしていいよ」ってことなんですか?

では、逆に女性に聞きたいのですが、「自分が重い荷物をかかえているのに一切も持とうとしない男」「デートで奢るどころかたかってばかりの男」「いつまでも定職につかず働かない男」「いつもいつも弱音ばっかり吐くネガティブな男」と付き合いたいですか?結婚したいですか?

「YES」という女性がいるならお会いしたいですよ。

こんなもの別に「男らしさの呪いから解放された男」でもなんでもなくてただのクズです。


いったい国際男性デーとは、何を志向しているのでしょう?「男はみんなヒモになろう」ってことなんですかね?

アンケートの中に「スーツ着用の習慣」があるから生きづらいとか言ってる男が17%もいるらしいのですが、「だったらスーツじゃない服で会社いけばいいじゃない」としか思わない。そもそもなんでスーツを着ることくらいが「生きづらさ」にまで昇華するのか意味がわからない。そして、そんなことで悩んでいる者はそもそも「男らしくもない」し「オトナでもない」のではないかすら思う。


こういう話になると、一部界隈の人達は「そんなに辛いなら男らしさからおりればいいじゃない」と簡単に言うのだが、「男らしさからおりる」ということはある意味「生きることをやめる」に等しい男がたくさんいるってことを忘れないでほしい。

上記のアンケートで「生きづらい」とされている「力仕事は俺がやる」「デートでは俺が奢る」「俺が一家の大黒柱として養う」ということこそが自己の社会的役割の確認であり、自己肯定感になっている男もたくさんいる。そして、実際そうした「男らしさ規範」に縛られている男の方が結婚して、よき父親になっていたりする。幸福度もそういう男の方が高い。

だからって、そうした男が全員「弱音を吐かない」かといえばそうじゃない。家族のために仕事をして稼ぐということと、弱音を吐かないということは決してand条件じゃない。

外面オラオラしていても、妻に対しては弱音を吐く夫だってたくさんいるでしょう。むしろ、一番身近にいるはずの家族やパートナーに、「弱音を吐いてはいけない」なんて思わせてしまう関係性こそが悲劇だと思います。

何に対してカッコつけているの?


男が生きづらさを感じているのだとしたら、それは「男」という記号性の問題ではない。あくまでひとりひとりの〇〇さんという個体の問題です。〇〇さんにとって辛いことが、必ずしも▲▲さんにとって辛いことと同義ではない。

そんなの当たり前の話です。


「男とはこうあるべき」みたいなのを否定しているようで「男とはこうあるべきだと思わないでいるべき」みたいな別の統一規範を押し付けているようにしか僕には見えない。


脊髄反射的に「男らしさ」とか「女らしさ」を否定する輩もいるけど、あなたの価値観はあなたのものであって万人に強制するものであってはならないと思います。ましてや、自分のコミュニティと全く関係ないところにいる人間が自分と違う考え方だからと、わざわざ出張して攻撃するような人とか、いったい何がしたいのかわからない。

ほっとけよ、と思います。

「男らしい」男性が好きな女性がいていいし、「女らしい」女性が好きな男性がいてもいい。そういう価値観同士が結びついて、互いの合意と了解のもとそれでうまくやれるなら、他人が口をはさむことではない。

大事なのは、ある個人にとって、いつの時もどんな場面でも「男らしくあらねばならぬ」と考えることをやめるということです。時と場合に応じて、「男らしくなくていい」のです。

言ってること、やってることが終始一貫している必要なんてない。コロコロ変われることこそ生きる適応力だし、社会生活を送るにあたっての根源的な力です。

「男らしさ」とか「女らしさ」そのものの否定ではなく、そんなもの所詮生きていくための道具でしかないと考えるほうがいい。道具として使うべきときには使い、不要なときしまっておけばいいだけ。捨てる必要もない。道具はうまく活用していけばいいだけの話です。


「武士道とは死ぬことと見つけたり」で有名な江戸時代の書物「葉隠」ですが、そこだけ切り取られているから勘違いしている人多いのだけど、あれは死ぬことを奨励するどころか「生きる処世術」を書いたものです。

それに対して、最悪な本が新渡戸稲造の「武士道」です。あれは、全世界にサムライを誤解させたばかりか、逆輸入によって日本人にまで間違ったサムライ観を植え付けてしまった。

そもそも新渡戸稲造は武士の出というが、すぐに明治維新になって、武士たる者が何かを知らないまま、自分の方言を馬鹿にされるのが嫌で誰ともコミュニケーション取れなくなり、方言の関係ない英語を学び、海外に逃亡して「武士道」なんてものを海外の人達向けに書いたわけです。あそこに書かれたような武士は限りなく観念的で虚構でしょ?

そもそも武士は相手は殺しても自分は死なないことが仕事。たった一回の戦で負けたからって、自ら死ぬような武士なんてポンコツです。最後の最後まで、たとえ捕まってでも、とことん生きようとするわけです。それこそ斬首の瞬間まで逃げる機会をうかがうもの。

必要とあらば逃げる。隠れる。農民に化けてでも欺こうとする。そこにメンツも対面もない。同時に、簡単に裏切りもする。主君絶対なんてない。生きるためにはそれが当然だから。生きてりゃなんとかなるからです。武士=儒教思想というのは後付けの話でしかない。

武士だけじゃなく、それが人間として当たり前なんです。生き抜くことに何らかの「らしさ」が必要なら使えばいいが、邪魔になるなら使わないでいい。

「男らしさ」なんて「生きる燃料」としてだけ使えばよいのであり、決して死ぬ理由に使うべきものではない。

長年の会社勤めを辞めて、文筆家として独立しました。これからは、皆さまの支援が直接生活費になります。なにとぞサポートいただけると大変助かります。よろしくお願いします。