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「個の主張」と「和の尊重」—対立概念が両立するとき、心理的安全が生まれる

「率直な発言はさまざまな対人関係のリスクをはらむが、そのリスクをとっても(なお)安全だと感じられる職場環境、人間関係の中に存在する」ものが、「心理的安全性」だという。その前提には、「信頼」「尊敬」「寛容」がある。

メンバーが組織に尊重され、発言が人格否定につながったりしないと感じられるのであれば、個人が過剰に自己検閲することなしに、自分の意見を言える。自然と、意見は多様になり、切磋琢磨の中からイノベーションが生まれるだろう。

反対に、自己検閲が過ぎる組織は、個人が委縮してしまい、イノベーションが生まれにくい。こんな場面にコンサルタントとして遭遇したこともある。

技術は画期的なものの、まだ既存製品に幾つかの次元で劣った競合の新製品を前にして、上長が「こんなんじゃ、とてもまだまだ」と評した途端に、居合わせた全員が「そうですよね」と、同意した。

結局、まともに取り上げられなかった競合製品は市場を変革し、この会社は後れを挽回するのに数年もかかることになってしまった。本当にあの時、全員が上長と意見を同じくしていたのか、今になっては分からない。しかし、鶴の一声に倣う「右向け右」が暗黙に期待され、「もしかして、こういう見方もできるのでは?」と言えるような心理的安全性が不足していた可能性は高い。

一方で、心理的安全性は、むやみに個人が声高に自己主張をする土壌を意味するのではない。「私はいつも本当の私らしく」が行き過ぎると、非生産的な我のぶつかり合いが起こる。さらに、自分と相いれない意見をはなから受け入れず、「寛容」が失われる。

例えば、日本よりも個人主義が色濃いアメリカでは、発言が炎上した結果、発言者が「キャンセル」され、半永久的に村八分されることが問題になっている。「キャンセル」は有名人に限らず、大学キャンパスでも起こりえる―「私らしく」が行き過ぎた結果である。こうなると、せっかくの自己主張から一周して「(キャンセルが怖くて)何も言えない」風潮が生まれてしまう。

反対に、日本のような全体主義の強い文化では、初めから我の黙殺が起こるリスクが高い。空気を読みすぎた結果、少しでも和を乱すような意見を自ら 封印してしまう。元クライアントの例もこれに当たるかもしれない。この結果、盲目的な服従とやらされ感が蔓延し、意見の多様性を糧にするイノベーションが停滞することは言うまでもない。

したがって、最適解はこの中間にあるはずだ。すなわち、心理的安全性を生産的な形で最大化するためには、(アメリカ的な)「個の主張」と(日本的な)「和の尊重」が両立することが必要なのではないか。両者を両立させるような「程よい枠」が作れないものだろうか?

Source: EY Parthenon分析

心理的安全性を高める程よい枠とは、お互いが意見の差を超えて尊重しあう空気を作ることから始まる。特に日本では、組織の上下関係が絶対的な組織が多く、年少者は意見を言いにくい。リーダーには、口と心を閉ざしがちなメンバーを議論に引き入れる努力が求められる。普段の雰囲気づくりに加え、具体的な工夫が可能だ。

例えば 、最近インタビューさせていただいた外資系幹部は、業績が停滞したビジネスに新しい風を入れるため、よりすぐりの30人で10人ずつのグループを3つ作り、それぞれにアイディアだしを求めたそうだ。

肝は、各グループの構成を部署またがり・年次またがりとしたことだ。それぞれが違う経験から意見を出し合い、また、年次を混ぜることで例えば「若い人代表」の見方を聴こうという雰囲気が自然と出来上がったという。こうして生まれたアイディアの複数が実行に移され、停滞期を抜ける底力となった。

この事例のように、意図的にパワーバランスが偏らないグループを作ることは、心理的安全性を最大化することにつながる。さらに、グループリーダーを中立的な持ち回りにすれば、「常に年長者がえらい」という暗黙の前提を直すことができる。

心理的安全性は、個と和のバランスから出来上がる繊細な状態を表す。どちらに偏っても、生産的なイノベーションの土壌は望めない。言いたい放題でもなく、絶対服従でもない「程よい枠」を作ることがリーダーに求められている。

#日経COMEMO #心理的安全性を確保するには

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