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「当てにいかない」処世術 〜じぶんの価値で仕事するということ

先ほど投票にいってまいりました。こんにちは、uni'que若宮です。

起業して二年ほど、よく転職などキャリアの相談や事業の相談をされることがあるのですが、その際アドバイスとして伝えることに「当てにいかない」というのがあります。

これは過去の失敗を経て、自らいまも意識していることなのですが、若い方でも意外その呪縛に囚われている人が多いように思うので、今日はちょっと「当てにいかない」ということについて書きたいと思います。


「相手の立場に立って考えろよ!」

「相手の立場」ーー仕事でよく聞く言葉です。特に若手の方は、上司や先輩に言われることが多いのではないでしょうか。

「仕事は相手があってするものだ。だから、相手のニーズに合わせることが大事だ」

正論な気がします。すごく正論な気が。

あるいは社外の人に対しては「顧客第一主義」と言われることもあります。仕事というのは基本的に「価値活動」であり、「価値」というのは一人よがりではなく、相手あってのものです。なので相手のニーズを起点に考えることは理にかなっているように思える。


しかし僕はこれはなかなか危険なことだと考えています。

「誰かに合わせる」ことは一歩間違うと自分の価値を狭めてしまうからです。


価値をなくす「同化」

相手のニーズに合わせることは良いことだし、むしろビジネスの基本だと思われます。しかしそれが実は「価値をなくす」ことに繋がってしまうことがあるとしたらどうでしょう。ここにパラドックスがあるのです。


なぜ相手に合わせることが「価値をなくす」ことにつながるのでしょうか?

それは知らず知らず相手に同化してしまうことがあるからです。僕はよく「ユニークバリュー」について話しますが、価値とは「じぶん」と相手の掛け算であり、かつより本来的には「じぶん」が起点となるものでないといけないと考えています。

「じぶんだけが提供できる価値」、それをなおざりにして相手に合わせてしまうのが「同化」です。「同化」すると相手の考えと同じことをするだけになり、プラスアルファの価値を付け加えることがありません。なにもかも自分の思い通りにしてくれる彼氏は最初は理想的とおもうかもしれませんが、やがて「いてもいなくてもいい存在」になってしまいます。


「器用さ」の罠

「鈍感力」がある人はよいのですが、ある程度器用な人や高学歴の人ほど「同化」への注意が必要です。

僕自身、わりと小器用な方で、試験とかまあまあ得意でした。「出題者の意図」を先読みして「当てにいく」ことができるのです。こういう能力は固定的な枠組みや大きな組織の中では評価されやすいので、某大企業時代にはその能力を遺憾なく発揮して「最早(さいそう)」と言われるスピードで出世もしました。

しかし「当てにいく」ほど、じぶんの価値が希薄になってきます。そして、最終的に「あれ、おれは世の中にどんな価値を発揮できているのだろう?」ということに気づく。(いわゆる企業で出世している人にはこの罠にはまっている人が多いように思います。「当てにいく」ことを繰り返して出世した人はトップになった時判断ができず、それを露呈します)


小器用な自分がこのまま「当てにいく」人生をしていると、じぶんの価値がなくなってしまうのではないか。それが怖くなり僕は出世レースを捨て、大企業を辞めました。


「依存」の罠

しかし、企業をやめれば「当てにいく」人生でなくなるか、というとそんなことはありませんでした。思い返すと起業したあとも1年ばかり「当てにいく」癖が続いていました。

たとえば資金調達のために投資家を訪問した時。その場を円満にするためなんとなく投資家に話を合わせてしまったり、投資家が気に入りそうなストーリーを作って(○年で上場します!とか、△年以内にグローバル!とか)「当てにいく」プレゼンをしてしまう。

いや、むしろ起業初期においてはサラリーマンの時よりも顕著だったかもしれません。切迫感があったからです。どうしても資金がほしい。あるいはメディアに露出するためにこの人に気に入られたい。「じゃないと死ぬ」そういう切迫感は会社員時代より強かった。

切迫はある種の「依存」を生みがちです。


でも「当てにいく」時ほど、調達もメディアへの売り込みも、ピッチイベントも、まあほとんどのことがうまくいきませんでした。なんとなれば、こうしたい!と自分が振り切れて本心からは思っていないのです。正直、上場とかどうでもいい。それは手段だし、それよりも女性の活躍できる会社である方が大事なのです。なのに、5年目で利益3桁とか上場を目指します!とかグローバル、とか、相手に合わせて話す。そんな言葉で人を動かすことはできません。依存して阿れば阿るほど何もかもうまくいかなかった。


「保身」の罠

「当てにいく」ことが本当に怖いのは、それが癖になることです。これは本当に怖い。

「当てにいく」と「誰かの答え」に頼れるので、じぶんを賭ける怖さがありません。相手が望むことをするのは相手に答えを委ねることであり、また相手が望まないことはしない、ということです。答えを考えなくていいし、反対されるリスクもない。ある意味とても楽です。なのでどんどんそれに慣れて「保身」をしていってしまう。

逆に、じぶん主体で何かをするのには怖さがある。なぜなら、言い訳ができないからです。

たとえば小さいことだけれども、リクルートスーツを着る。それは「保身」のための「言い訳」を着ることでもあると思います。大人は「服装とか髪型で個性出さないこと。本質的な個性を測るためにみんな外形は一律に」とか言う。けど「本質的な個性」ってなんでしょう?

「外形を一律にしないと個性を測れない」というのは面接官の評価能力のなさを棚に上げた「言い訳」でしかありません。そしてそれに乗っかる学生も「言い訳」を身にまとう。お互いに「保身」をしているのです。


「覚悟」と「敬意」

もちろん、なんでもアリというわけではありません。いくら「じぶんらしく」といっても、全裸でいったらたぶん面接までたどり着けない

「郷に入りては郷に従え」という言葉もあります。相手に合わせることも「思いやり」や「敬意」の上で大事なのではないか。

しかし、形式だけ相手に合わせることは、実は敬意とはあまり関係がありません


もちろん考えもなくだらしない格好や馴れ馴れしい物言いをするのはただの不敬でしょう。ただちゃんと考えがあって、その方がじぶんの価値が高まるのであれば、相手に合わせない方がむしろ敬意なのではないかと僕は思います。

たとえば僕はどんな大企業との打ち合わせでも夏場は短パンです。もはや亜熱帯の日本の真夏日に、無駄に暑さで疲弊しないほうがパフォーマンスを発揮できる、という信念があり、そのメッセージでもあるからです。

もちろん「けしからん!」というお叱りを受けたり門前払いされるリスクもゼロではありません。しかし例えそうであっても、相手とのMTGでじぶんの価値を最大限に発揮することこそが本当の「敬意」ではないでしょうか。相手に形式だけ合わせてじぶんの価値を減らすことは本末転倒だと僕は思います。

根っこに敬意をもっていることが大事で、あまりに外面や相手の顔色ばかりを考えてしまうとパフォーマンスが落ちます。まずは相手に伝えたいじぶんの価値をちゃんと考えることが第一で、次にその価値をどうやったら最もよくわかってもらえるか、を考えた方がよい。どうしても伝わらない、という相手もいます。相手に阿ることでじぶんの価値がさがるのであれば、その人とは縁がなかった、と割り切ることも大事だと思います。


尊敬をもって、師を離れよう

そしてまた、「当てにいく」癖はすごい人や尊敬する人と接するときにこそ注意が必要です。

僕はDeNAで新規事業をしていたとき、原田明典さんという方に出会いました。原田さんには本当にたくさんのことを教わり、彼との出会い無くして起業家としての今はなかったと思っています。

しかし、外に出て起業してみて思うのは、原田さんのもとを離れてよかったな、ということです。自分で言うのもなんですが、起業してからの方が何倍も伸び伸びしているし、じぶんの価値が発揮できている実感もあります。

前述したように、どうも僕には小器用な性格があり、かつ根がとてもピュアなので、「すごい人」に出会うとどうしてもその人をトレースしてしまうのですね。原田さんはずっと「答えは自分で探すしかないんだよ」とおっしゃっていたわけですが、その近くにいて経験に裏打ちされた理論と予言者のような言葉を聞いていると、それが「正解」のように思えてきてしまうわけです。そして何かしようという時に原田さんと意見が違うと「ちょっと考え直します」と言ってしまったりする。

僕の根がとてもピュアなせいもあると思うのですが、今思えばこれはある種の萎縮で、じぶん本来のパフォーマンスが出ていなかった。

起業して、前述のような失敗も経て、少し開き直って改めて「じぶんの価値」に誠実であろうと思って色々やっていると、原田さんの元を離れてよかったな、と思います。そばを離れてできる限りの価値を発揮して恩返しする方が僕には向いていたのだと思いますし、その方が原田さんとの出会いを肯定することだと思っています。

ここで唐突にニーチェを引きます。

まことに、わたしはきみたちにすすめる。わたしから去って、ツァラトゥストラにさからえ!さらによりよくは、ツァラトゥストラを恥じよ!彼はきみたちをあざむいたかもしれぬ。
認識の人は、その敵を愛するばかりでなく、その友をも憎みえなければならない。
いつまでも単に弟子にとどまるならば、師によく報いるものではない。なぜきみたちはわたしの花かんむりをむしりとろうとしないか。

尊敬は同化することでも阿ることでもありません。師や相手への敬意をもって、じぶんだけの価値を最大化する、それが本当の尊敬ということではないか、と思うのです。


みなさんはいま「当てにいく」仕事をしていないでしょうか。じぶんの価値に誠実でしょうか。

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