「リフレーミング」は眼鏡をつけかえることー意味を探る旅に出る。
先月中旬、東京でロベルト・ベルガンティによるークショップを行いました。そこから考えたことをメモしておきます。
何度も書いていますが、今はストックホルム経済大やハーバードビジネススクールで教える彼の『突破するデザイン』を2017年に日本語版監修をして以降、「意味」や「センスメイキング」という領域がぼくの大きな関心事になっています。この6年間、「意味のイノベーション」のエヴェンジェリスト的活動をしてきました。
先月も都内で複数の会社の方たちが参加するなか、意味を起点としたリーダーシップをテーマとしたワークショップをアレンジしました。
意味領域に踏み出せない背景とは?
これまで問題解決のための方法は沢山生み出されてきました。例えば、英国のデザインカウンシルが提案したダブルダイヤモンドに代表される、問題の洗い出しと絞りこみ→解決策の多数の提示と絞り込みのようなプロセスです。しかしながら、意味に絡む領域においては、まだ多くの会社や人は手探りの手前のところでとどまっている、との現状認識があります。
手探りの手前のところでとどまっている、と表現するのは2つの解釈があります。
一つは与えられた問題の解決ではなく、問題そのものを見いだす力が求められているとの認識までは到達しているのですが、それとは違った意味形成やセンスメイキングの次元が必須のものとして視野に入っていない人が多い、ということです。
ソーシャルイノベーションへのデザイン導入についての第一人者であるエツィオ・マンズィーニの下図に従えば、左半分(問題解決)はよく見えているのですが、右半分(センスメイキング)がほとんど見えていない。あるいは、その存在があるのは意識しているが、実際に手が回らないから右半分を忘却したフリをしているのです。というのも、ざっくりいえば、多くのビジネス活動は問題解決に集中しており、右半分は1割程度の「必要」発生率と考えられているからです。
二つ目は、右半分の意味領域の大切さは分かっているにもかかわらず、どのように踏み込んでいいのかよく分からない、というのが現実として手前で踏みとどまる状況を招いています。「デザイン思考」の次に「アート思考」という言葉がでてくれば、そこに突破口があるのではないか?と期待して美術館に足を運びます。しかし、数回、趣くままに絵画や彫刻を見ても「心が洗われた」とか「私には思いつかない発想だ」程度の感想から先にいきません。
合理的思考の延長で意味は語れない
そういうわけで、多くの人はそこで頓挫しています。場合によっては、左半分の手法を見なおことで右半分への接近が可能ではないか?とも考えるのですが、「違った眼鏡をかける」リフレーミングを行うのは厳しいです。こういう人は、どうしても合理性が通用しない、との体感がないのですね。
NIKKEI The STYLEに「80年代イタリアデザイン「メンフィス」に光ふたたび」との記事で紹介したデザイナー、エットーレ・ソットサスは、合理的思考の通用しない世界があることを痛感しました。彼が、世界的ヒット作をつくったオリベッティという事務機器メーカーの製品デザインはテクノロジーに依拠した、いわば問題解決の仕事であった。しかし、1980年代に行ったメンフィスという活動では新しい表現言語の開拓を目指し、新しい意味を探索しました。
彼は1990年代、メンフィスの活動をやめた後、「他人はオリベッティの仕事は大変だったでしょうと私に聞く。だが、私にとって大変だったのは、オリベッティではなくメンフィスの仕事だった」と意味探索のしんどさをメモにして語っています。そして、このメモには別の文章もあります。
「愛する若い女性に花束を贈ろうにも、どのような花を選べばよいかに際し、合理的な思考が使えなかった」との内容です。彼は2人目の奥さんとなる女性と50代後半に出逢います。相手は20数歳下の女性です。メンフィスの活動をはじめる数年前ですが、その時(にも!)、彼は合理的思考の限界を思ったのです。
このように眼鏡をつけかえることを身体的な経験として持たない限り、マンズィーニのチャートの右半分の範囲での探索に腰を据えにくいのでしょう。なにせ1割程度の必要発生率なのですから。だが、今や社会的に大きなインパクトを与えたり、何らかの文化をつくるに貢献しないと、長期的な、それこそサステナブルなビジネスとは認知されずらいなかにあって、右半分は蔑ろにするのは難しくなっています。だいたい、ヒットとなる商品は右半分に依拠することが多い、との事情も絡みます。
視覚そのものに制限を加える
以上のようなことを、この一カ月、あらためて思いはせていました。合理的思考が通用しないとは、例えば、チームのつくり方もそうです。ベルガンティのワークショップでペアの限界と有効性を体感させるものがあります。次のような内容です。
チームが機械のように合理的に運営できると考えるのは、現実的ではない夢想に過ぎないことが実感できます。軍隊であってさえ、そうでしょう。だからこそ、ペアの重要性が際立つわけで、かつペアの限界にも思い知る。これが身体でわかるのです。
数日前、あるヒントをもらいました。さらなる体感の持ち方についてです。
ミラノ工科大学でブラインドサッカーのワークショップを開催しました。日本ブラインドサッカー協会の方がミラノに来て、午前中はデザイン学部の修士の学生たち、午後は学部を問わず、教職員たちが参加するワークショップをしました。
ぼくは実施にあたりコーディネートをお手伝いしたので見学していたのですが、「眼鏡を替える一つとして、強制的に視覚を制限する」という方法があるのに気がつきました。視覚障害の人たちの活動を障害のない人たちが経験する意義は、当然自分なりに理解している「つもり」でした。
即ち、このワークショップが、チーム構築やコミュニケーション向上など、ビジネス上のさまざまな目的に有効であろうとは思っていました。しかし、意味領域に踏み出すにあたり、その覚醒のために「意図的なカオス」を経験する。この文脈におけるブラインドサッカーの活用は考えていませんでした。
「眼鏡をつけかえる」とのテーマはさらに追求しようと思います。
冒頭の写真©Ken Anzai
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