幸福の比較なんて全く必要性を感じないどころか新たな階級と差別を生むだけ
「国の幸福」を数値化する動きがあるらしい。また、どうでもいいランキング化してマスコミがはゃぐネタになるだけなんじゃないの?と思う。
記事を読むと、GDPを補えるような「共通の幸福度指数」の開発にも、力を注ぐべきと締めているのだが、まったくそうは思わないし、GDPのように幸福なんてものを数値化することによって、むしろ不幸な人間をたくさん生み出しかねない。
そもそも「幸福なんて他人や他国と比較するものではない」し、「比較をするという行動そのものが幸福とは縁遠いもの」からだ。こんなもの作ったところで「どうせ、日本は北欧で比べて不幸だ」という北欧出羽守が嬉々としてツイッターに書き込むだけだし、「日本のこの数値が他国と比べて低いからここに政府の支出を投下すべきだ」みたいなわけのわからない理屈を言う学者が出てくるだけだろう。誰かの不満と文句を生みだし、誰かが誰かを攻撃するための武器になるだけで、むしろ有害である。
百歩譲って、学者が論文の研究材料として考察するのは一向に勝手にやってもらって構わない。全世界で閲覧数が3桁にしかならないような論文などいくら書いてもらっても構わない。
しかし、生活レベルだけではなく、文化も宗教も価値観も違う人々の幸福を全世界統一基準の幸福指標にあてはめて数値化し、あまつさえランキングなどして一体何になるというのだろう?そもそも多様性とかいいながら統一したがる系の人達の脳は一体どうなっているのだろう?といつも不思議である。
ジェンダーギャップ指数のランキングの時もさんざん書いたのだが、全体主義に気付かないまま全体主義に陥る集団の恐怖すら感じる。
そのジェンダーギャップ指数で世界の120位だとかなんだとかさんざん話題にしたメディアもあったが、こういった冷静な統計家の冷静な記事のおかけで、賢いマスコミは一気に記事化しなくなったという例もある(相変わらず120位ガーと騒いでいる界隈もいるが…)。
マスコミ各社が「日本=旧態依然の女性差別国・男性優位社会」ということを述べるためにこぞって取り上げる世界経済フォーラムの「ジェンダーギャップ指数」を男女格差の程度を示す指標としてうのみして論じることには無理があろう。
まさにその通りで、このジェンダーギャップ指数を全世界の標準で統一で正しくて誰も異を唱えてはいけないという「ポリコレ全体主義」による押し付けこそが、かつてカエサルの言った「人は信じたいものしか見ない」というものそのものなのだろう。
そして、実は、幸福なんてものも、一人一人違う「信じたいもの」の中にあって、同じものを見ていても、それは数値化もできないし、感じ方を同じくすることなんて不可能である。ある特定の対象を見て、全世界の人々が同じように幸せを感じるようだとしたら、それこそ地獄だろう。
仏教に唯識思想というものがある。ものすごく難解なので簡単には説明できないが(人に説明できるほど自分も理解していない)、あえて簡単にいうとすれば、この世のすべての物は個人の認識によって映し出されたものであり、物という実体など存在せず、ただ個人の識だけがあるという考え方である。
というと、いや実体はあるだろうと反論されるが、たとえば、ある人物と対峙するということを考えた時に、あなたはその人を見て、声を聞いて、においを感じて、触って感触を確かめて、話しあって考え方を確認することはできる。できるが、それをもってあなたがその人を全部理解することは不可能である。理解したと錯覚したのは、そういう五感や認識というものを通じて、あなたの中に相手という像を作り出し、あなたが見ているのは「あなたが作り出した像」であり、相手そのものではないということである。
ひるがえって、自分自身のことすら、誰も実体なんてわかっていない。そもそも主観で見た時に自分の目すら人は見る事はできない。鏡があるじゃないかというがそれもまた虚像である(左右反対だし)。
「私はこういう人間だ」と確信をもっていたとしても、さっきの話の逆になるが、他人からみればあなたも所詮「他人の中に造られたあなたという虚像」なのであって、あなたではない。あなたではない実体のない「自分の主観の虚像」を相手はあなただと思って勝手に相対しているに過ぎない。
この世のどこにも実体なんてない、それが「空」なのであるという話につながるのだが、「空」の話までいくとますますわからなくなるので、単純に我々はこの世界を自分の主観による投影(プロジェクション)によって認知しているのであることだけご理解いただきたい。
だから、同じAさんに対しても、BさんとCさんでは「Aさんの像」は違うはずなのだ。結局「Bさんの主観によるAさん」と「Cさんの主観によるAさん」とがいて、さらに「Aさんの主観によるAさん」もいるもんだから全部違うのである。絶対的に統一的なAさんなんて存在しないし、存在するといわれて困るのはAさん本人だろう。
このように認識ひとつで世界はいかようにでも変わってしまうものであり、だからこと共通認識を持つ安心感のために言語や文字や数字が生まれたわけだが、それらはあくまで便宜上コミュニケーションのための道具や手段であって本質ではない。
幸福の数値化などは、まさに手段の目的化そのものであり、本末転倒なのである。
かくいう私も幸福度を主観で調査して、独身より既婚の方が幸福で、男より女の方が幸福で、オタク趣味もっている方が何もない人より幸福で…なんてことを言っているわけだが、だからといって、絶対的に独身は既婚より幸福を感じる瞬間がないかというとそうではない。逆に、既婚者でも独身者より不幸な人だっている。大事なのは、どの属性や状態にある時に幸福なのかどうかではなく(どの国に住んでいるから幸福とかではなく)、どんな状態にあったとしても、認識ひとつで世界は変わる(ように思える)ということである。正確には世界は何も変わっていない。変わったのはその個人の認識とそれによって作り出された虚像が変わっただけだ。
統一規格で比較対象可能な指標を作ったところで、それは比較をして自分が上か下かという「意識の階級」を自分の中に生み出すだけで、それは見下しや差別や嫉妬などしか生み出さない。
もちろん、我々凡人は仏陀のように悟れるわけではないし、すべてが「空」だなんて思う必要もない。生きていく上で何かしらの道しるべだって必要にはなるし、拠り所はほしいものだ。それはそれでいい。だからなんでもかんでも数値化するなとは当然言わない。しかし、元来、幸福などというものはGDPのような数値化の枠外にあるからこそ、誰のもとにも舞い降りる可能性があるのではないか?
なんでもかんでも科学が可能にできるなんて傲慢は忘れた方がいい。と科学者じゃない凡人の俺はそう思って仕合わせを行動していこうと思う(幸せになるではなく「仕合わせをする」である)。
ほんこれ↓