電車やコミセンの価値を正しく評価しよう
「自治体のプール、公園、公立学校、文化施設、図書館といった公共施設の価値は、そのサービスだけにとどまらない。民主主義が求めるのは完全な平等ではなく、異なる背景を持つ人々が混ざり合うこと。公共空間は、私たちが連帯感を築き、市民社会で互いに責任を負う存在であることを思い起こさせる。その価値を再認識すべきだろう」というのは、哲学者マイケル・サンデル氏による発言だ。
公共空間の価値は、「多くが使うインフラをみんなで負担しましょう」という機能的、経済的な面にとどまらず、民主主義に資するものだという。21世紀に米国で進んだ社会の分断を考えると、職業や賃金で暗黙に定義される階級によって職場はもちろんのこと、住む場所、学校、交友範囲などが規定されてしまい、異なる階級の人々はお互い交わらないために階級の再生産が起こりやすくなったという背景がある。この傾向は自己増殖的に進むので、歯止めが利きにくい。
私がニューヨーク市に住んでいた2000年代前半は、まだ地下鉄が多くの人にとって当然の「足」だったが、最近は、地下鉄は危ないという通念が広がり、少し余裕のある層はライドシェアの個室で移動してしまう。大統領選挙前に出張先のロンドンで会った米国人ビジネスマンは、結局民主党、共和党のどちらに転んでも、自分はゲートで守られた私有地コミュニティに住み、あまり関係がないと本音を語っていた。このように、異なる背景を持つ人が混ざり合わなくなると、共感したり一緒に問題解決したりする機運が薄れてしまう。
一方、日本の大都市に住んでいる実感として、まだまだ公共施設が大切にされていると感じる。電車に対する信頼感は高く、電車に乗れば、向かいの席を見遣(や)るだけで世相を観察でき、真珠のネックレスをつけた若い男性にはっとさせられることもある。また、私の住む市では、自治体の運営するコミュニティセンター、通称「コミセン」が何か所もあり、それぞれ特色を持って運営されている。使用料が安価なので趣味のサークルはコミセンを活動場所にすることが多い。サークルに行けば引退世代から現役まで、いろいろな立場のメンバーが集まり、小宇宙を成している。職場とも家庭とも違う第三の場所であり、趣味という軸の周りに階級の混ざる場所でもある。
このような公共空間は、一見当たり前のように存在しているが、民主主義と同じく、手入れを怠れば衰えてしまうものでもある。欧米では、週末には必ずコミュニティが集まる教会が公共空間の役割を果たしてきたが、宗教の衰退とともに存在感が薄れてしまった。日本の場合、公共空間に宗教色がないことが奏功したともいえる。民主主義を下支えするこのようなインフラを再評価し、投資を絶やさないことが大切だ。