世代交代は組織力の増強。未来を紡ぐ
先月、フランスの首相に34歳のガブリエル・アタル氏が就任した。任命したのは46歳のマクロン大統領だ。コンサルティング会社にいたので、30代で活躍することに全くの違和感はないが、一国の首相という役職を30代前半で、という事実には少々驚いた。
日本ではこのニュースを聞いて、日本の高齢政治を憂う声が出ているが、私自身は高齢だからいけないと考えているわけでもない。しかし、政治が未来を切り拓く責務を持つことから、その未来を担う世代自身がありたいと思う世界を作り上げるべきだとも感じている。その意味での世代交代はある意味、必然と言って良いのかもしれない。若者が「自分たちのありたい姿が反映できなかった」と思いながら生きる未来など、決して来ては欲しくないと考えている。
私にとっての世代交代とは、ゼロイチとは異なる。引退ではなく、社会への向き合い方の変化だ。司令塔になってありたい未来へと引っ張っていくという感覚と、ありたい未来を共に生み出すために尽力するという感覚のどちらをより多く持つかというバランスの変化だ。十分に高い視座、広い視野で、みんなのありたい未来を明確に描けるうちは、前者の司令塔の割合が多くを占めているのが良いと思う。ありたい未来を掲げ、それを実現したい同士を集めていく。一方、誰かが描いた未来に共感するようになったら、その未来に役立つために何ができるかを考え、尽力する割合を多くすればいい。
この変化はおそらく徐々に起きる。そして、周囲に広く耳を傾けておくと、徐々にその状況に気がつくようになる。あのありたい姿は面白い。あんな要素を持てたらいいな。この辺りの感覚が多くなってくると、いわゆる世代交代が視野に入ってくる。引き継ぎ期間が始まるのだ。「引っ張っていく」から、「貢献したい」へと意識が移り始める瞬間だ。冒頭のフランスの首相任命も、関連のニュースを読んでいると、こうした瞬間であったようにも感じられる。若さに対する感度の高さは、将来予測やシナリオプランニングが盛んな欧州ならではの感覚と言っても良いかもしれない。
伝統芸能の世界の世代交代からも大きな学びがあった。尾上菊之助さんの記事には「芸を受け継ぐということは、稽古をつけてもらったり、舞台上での演技を見たりするということだけではない。思い出すのは、子どものころの楽屋で目にした、祖父の七代目梅幸や父の七代目菊五郎の後ろ姿だ。鏡台に向き合う背中からは緊張感がほとばしり、役作りの時間の大切さを学んだ」とある。さらに「いまも一門を支えなければという重圧はあまり感じず、一日一日を大切に務めることで精いっぱいだ。(その上で)伝統の型を学ぶだけではない、心の演技の工夫が要る」とも語っている。更なる学びを貪欲に求めつつも、菊之助さんの考えるありたい姿への道を着実に進まれている姿は、ただただリスペクトでしかない。
記事の最後に「以前の私は、白神のような自然と、人工的な劇場はかけ離れた存在だと捉えていた。しかし芝居は劇場の限られた空間であれ、感情を表現し、懸命に役を生きる。それは木々が生き、動物たちが命のやりとりをする山の中と、「生きる」という本質では変わらない」とあった。世代交代というのは「生き方」や「役割」のステージの変化ことで、引退という非連続の変化ではなく、日常の営みの中で気づき、少しずつ能動的に変化を起こしていく「生き様」なのではないかと、改めて感じさせてくれた。
ふと、世代交代とは一線を画す「生き様」が目に入ってきた。歌舞伎の「老け役」だ。タイトルに「主役以上の味わいを醸す」とあるように、華やかなスターにもまさって忘れ難い名優たちがいるようだ。自らのありたい姿を持ちつつも、それを活用して、時代時代の歌舞伎のありたい姿に、長きに亘って貢献するという「生き様」も存在しているのだ。ありたい姿を描く司令塔は時代時代で変わっていくが、その変化にも一喜一憂せず、凄技を携えてありたい姿へ貢献し続けてくれるこうした仲間を大事に増やしていくことも忘れてはいけない。
世代交代とは、今のありたい姿を描いた人から、次のありたい姿を描く人へのバトンタッチだ。でも決して引退ではない。バトンタッチした人は、次のありたい姿への貢献へと役割を変える。世代交代の度に、組織力を増強していくイメージだ。もちろん、前述のように、世代交代とは関係なしに、その時々のありたい姿へ貢献し続ける人々もいる。こうした人も何より大事にすべきなのは言うまでもない。ありたい姿は、時代時代で多様性が増す。新たな仲間を招き入れるきっかけになる。世代交代を機に、より広い範囲での共存共栄を追求する世界へと変貌させていくことができるのだ。世代交代は組織力の増強。こんな思いをもちながらこれからも進んでいこうと思う。