「文化の盗用」とは何の問題?ーボルシチの無形文化遺産登録から考える
「ボルシチ」がユネスコの無形文化遺産に登録されました。
上記の決定にロシアの外交官は反発しているようです。このニュースを読み、ぼくは「文化の盗用」とも密接に絡むテーマであると思いました。そこで、文化の盗用との関連で、この記事について考えてみます。
まず無形文化遺産とは何でしょうか?
2003年、パリのユネスコ総会で合意されたものです。「グローバリゼーションの進展や社会の変容などに伴い,無形文化遺産に衰退や消滅などの脅威がもたらされるとの認識から,無形文化遺産の保護を目的」としています。内容は以下です。
今回のボルシチは、戦争がもたらす社会変容によって、上記の「緊急保護が必要な無形文化遺産」に該当すると判断されました。因みに、和食も2013年に無形文化遺産となっています。
無形文化遺産は、生活する人々の知恵と習慣を保護することで、人々の文化アイデンティを守るといってよいでしょう。他方、無形文化遺産とのレベルとは関係なく、その文化アイデンティティの侵害が問題になるのが「文化の盗用」です。
文化の盗用はどのようなケースで適用されやすいか?
「文化の盗用」は政治的・社会的・文化的に強い立場にある国の企業が、政治的・社会的・文化的に弱い立場にある国の文化要素を経済的利益を目的に使用する場合を指すのが多いです。
例えば、旧宗主国であるフランスのファッション企業が旧植民地の西アフリカで伝統的に使われてきたテキスタイルの柄を自社製品に使うことで、ビジネスの利益を享受する場合です。
「文化の盗用」は英語のcultural appropriation の訳語として使われることが多いです。しかし、本来、cultural appropriationそのものは「異文化要素の適用」との中立的な意味です。しかしながら、cultural appropriationはネガティブな意味で多用されています。
仮に「文化盗用」に相応する英語表現を探すのであれば、cultural mis appropriationであるといえますが(『新・ラグジュアリー 文化が生み出す経済 10の講義』における英国・マンチェスターメトロポリタン大学でファッション文化史を研究するベンジャミン・ワイルドさんのコメント)、そう正確に言葉を運用している人は多くないはずです。
この言葉、cultural appropriationは1980年代あたりからアートのコンセプトの一つとして使われるようになりましたが、対象分野は、アートだけでなく、言語、文学、デザイン、音楽、映像、プロダクトデザインなど広範囲にわたります。
特に、この直近の10年ほど、ソーシャルメディアで多くの人がパブリックの場で発言できるようになり、欧州ファッション企業の商品が「文化の盗用」であると、旧植民地出身の人から批判されるケースが増えてきています。
人類の歴史を振り返れば、常に異なった文化との交流と衝突で、あらゆるコンセプトやデザインは発展してきました。よって、現象の一部を切り取ったかのような「文化の盗用」との批判だけが独り歩きするのは好ましくありません。如何にフェアなあり方で交流できるか?が課題なのです。
「文化の盗用」は知財侵害になるか?
当然ながら、前述のケースが仮に登録されたある意匠や商標、あるいは特許の侵害を対象にしているのであれば、法律レベルの争いになります。
だが、あるローカル地域で使われる生地や工芸品の技法や表現が、法律の保護のもとにある方が珍しいくらいでしょう。
民族衣装のスタイル(着物も、その一つ)は限定された地域で習慣的に採用されてきたものです。今や、日常生活で着られず、伝統的行事だけで着られるケースも少なくないはずです(一部の宗教の原理主義者が、民族衣装の着用を義務化するのは、日常化の意味を問うているわけです)。
そして、この「限定された地域」が小さなサイズの村であること、あるいは国サイズを指すことがあります。これに意匠権などが絡むことは少なく、文化的アイデンティに絡むことが圧倒的に多いでしょう。
ですから、これらのデザインが「文化の盗用」と企業が批判された際、(弁護士が弁明の助けのためにパブリックに登場することなく)、企業の経営陣や広報が釈明や謝罪につとめることが中心になります。
ポイントは「盗用された」と思う人たちの感覚や意見がことを左右する点です。「盗用の意図はなかった。〇〇文化はリスペクトしている」との企業側の釈明が多いですが、「リスペクトしていない」と言明するはずもなく、これは一連のプロセスを観察することで「正体がばれる」との性質のものです。
(ぼくは、知財などの分野の専門家ではないので、上記で勘違いがあれば、専門家の方にご指摘いただきたいです)
「文化の盗用」は人権にかかわると表現した方が適切
以上から、「文化の盗用」はテクニカルな次元で捉えるのではなく、人権をコアにしたコミュニティの価値が問われていると認識するのが妥当でしょう。さらにいえば、自然というコモンズ(公共財)に生きる人の権利が対象になっているのです。
とすると、冒頭で紹介した無形文化遺産の趣旨と重なってきます。星を眺めて翌日の天候を予測する方法(自然及び万物に関する知識及び慣習に該当)が何らかの特許に触れるはずもありません。ただ、それがあるローカルで定着してきた知恵であるのは確かです。今も活用できる。こうしたソフトウェアを保護するのです。
当たり前ですが、天候の予測の仕方、はたまたある地域の精神性が「世界で唯一」であるかどうかは重要ではなく、それらの文化資産が生きるにあたり必要であると見なされるものであれば、保護するに値すると考えるのでしょう(自然の尊重を基本とする料理は、日本以外の地域にもあります)。
よって、日経新聞の記事にある「ユネスコは登録について、ボルシチがウクライナ固有のものだということは意味しないとも説明している」が示唆するのは、ボルシチを思うように料理して食べられないのは、「コミュニティーの社会、文化的幸福も侵害している」を重視するからだと理解して良さそうです。
穿った見方をすれば、他の国が「ボルシチは我が国固有の料理である」と主張できないような枠組みをつくることで、その他の国が「ウクライナのボルシチは文化盗用である」と言えなくなるわけです。
写真©Ken Anzai
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