電動化する旅とエネルギー供給
EU が2035年にはガソリン車販売を禁止し、事実上ガソリンで走る自動車を全廃する方向に動き始めている。これによって自動車産業が大きな影響が受けることは間違いがない。
特にEVよりはハイブリッド車を中心に開発を進めてきた日本の自動車産業は大きな岐路に立たされている。もちろん、EU はそれを承知の上でこうした規制・基準を設けてきていると考えるべきで、自分たちにとって有利なルールを作り、それによって自国や地域の産業を保護しようという動きは、今後も出てくると考えるべきだろう。
だがそれ以上に感慨深く思うのは、この自動車の EV化と共に航空機の分野でも 電動化の目処がつき始めていると思われることだ。
アメリカン航空が電動で飛行する航空機を大量発注したということがニュースになっていた。これもスタートアップ企業が手がけるもので果たして本当に予定通りの年までに商用飛行が可能になるのかは分からない。
しかしアメリカン航空のような大手の航空会社が一定の機数を発注するということはそれなりの勝算があってやっていることであると考えるべきだろう。そうなれば燃料をエンジンで燃やしながら飛ぶ現在の航空機が淘汰され、環境の負荷を高めるとして航空機利用が「飛び恥」などと呼ばれた時代は過去のものになる可能性があり、自動車の世界で起こりつつあるように、航空機メーカーと言えばボーイングかエアバス、という時代が終わるのかもしれない。
こうして移動手段のほとんどが電動化されていくことが、そう遠くない将来に見えてきている。言わば旅の電動化といっても良いと思うのだがこうした電動化で気になるのは、そのための電力をどのように環境に負荷をかけずにまかなうかということだ。いくら自動車や航空機を電動化したところで、そのための電力を化石燃料を燃やしてまかなうのでは何の意味もない。
もちろん日本でも議論が進んでいるように風力や太陽光などの自然エネルギー(再生可能エネルギー)も重要なポイントになるだろうが、少なくても現時点においてこうした大量の電動化による電力需要を自然エネルギーが安定的に供給できるとは考えにくい。そうなると、考えられるのは原子力といことになるだろうか。
日本は2011年の東日本大震災に伴う福島原発の事故によって、原子力発電の将来についての議論ができない状態にあると言ってよい。いまだに国内の原子力発電所はそのほとんどが稼働停止している。このため、年月の経過とともに忘れ去られつつあるが、現在日本の電力需要に対して発電量はギリギリになっており、この夏もそうだが冬の電力需要を賄えるかどうかが一部で懸念されている。原子力発電を支える人材の問題も、静かに深刻化しつつあるようだ。
自動車や旅客機などが電動化された場合、その需要を制限しないなら、化石燃料を燃やさずに環境に負荷をかけない電力でまかなうとなれば、現状においてその手段の一つとして原子力発電を抜きに考えることはできないだろう。そうでなければ、自然エネルギー等で賄える範囲で自動車や旅客機を動かす、ということがもう一方の選択肢になる。
もちろん、自然エネルギー・再生可能エネルギーの活用は大いに検討し推進されるべきであるが、言うまでもなく太陽光は曇っていれば発電ができず風力発電も風がなければ発電ができない。こうした安定的な電力供給が難しい再生可能エネルギーの特性を考えれば、再生可能エネルギーで供給可能な電力量の範囲に経済活動を制限するのでないならば、少なくても補助的に原子力発電を考えざるを得ない状況に我々は追い込まれている、ということを改めて認識せざるを得ない。象徴的に言うなら「今日は雨天で風がないから運休」ということを社会的に許容するのか、ということだ。
先日発表された経済産業省のエネルギー基本計画においても、この点についての国民的なコンセンサスが取れていないことを感じる。このままでは二酸化炭素の排出を十分に減らすことも難しく、また放っておけば今後拡大するであろう電力需要をまかなう方法もないということになる。
もし原子力発電の将来にかけるのであれば、海外では既に小規模でポータブルな原子力発電の動きが出てきているなど、次の時代の原子力発電の技術が生まれつつある。我が国はこうした動きにもついていけてないということになる。
原子力発電に頼らずに行くことも一つの選択であるが、その場合、何かを諦めることとセットになるだろう。例えば、二酸化炭素排出を制限しないなら、いわゆる「炭素税」の負担が必要になるだろうし、電動でない航空機は海外の空港に乗り入れを制限されることも十分に考えられる。さらに日本の製造業の作る製品が海外で価格競争力を失ったり、あるいは必要とされる性能を持てないということも考えられる。
一方で、これからも果てしなく成長の物語を追い求めていくのか、といった根源的な「豊かさ」に対する考え方を再考する方向も考えうる。
こうした点も踏まえて、単に原子力の安全性という観点に止まるのではなく、我が国将来の産業政策、ひいては一人ひとりの生活が豊かに維持できるのかどうか、そこでの「豊かさ」とはなにを意味するのか。今一度国民的な議論が必要な時に差し掛かっている。
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