汝の隣人を愛せ
古今、人生の目的、社会の目的は「幸福」あるいは「幸せ」である。紀元4世紀、ギリシャにおいて、既にこれは認識されていた。アリストテレスの『二コマコス倫理学』では既に、幸福こそが「最高善」であり、それ自身が「完結した目的」であるゆえ、それ以上の説明を必要としないものと位置づけられていた。まさに幸せこそが我々の目指す究極の目的と考えられてきたのである。
しかし、古今東西の古典や宗教の教えを見ると「自分の幸せを追及せよ」という教えは不思議なほど聞かない。むしろ、古今の幸福論においても、宗教においても強調されるのは「周りを幸せにすること」である。例えば、キリスト教の有名な山上の垂訓では「汝の隣人を愛せよ」という。仏教では「慈悲」という。儒教では「仁」という。もちろんそれぞれニュアンスは異なるが、いずれも、「自分がどうやったら幸せになるか」ではなく、「自分から周りへ」のよい働きかけを強調するもので、大きなベクトルの向きは共通である。
宗教だけではない。アランはその有名な『幸福論』において、意志を持って機嫌よくし、自ら喜びを周りに広めることの重要性を繰り返し強調されている。例えば「悲観主義は気分に、楽観主義は意志による」もので、「上機嫌という贈り物は、やりとりすることによって何倍にも膨らむ宝物である」(村井章子訳)とする。これも「自分から周りへ」の積極的な動きのベクトルの向きを表しているのである。
それ故に、このような宗教や古典における教えは、何か説教臭く、エゴを持った普通の人に、不自然に「人格者になれ」と無理に要求していると思っている人が多いのではないか思う。
幸せの科学
ところが最新の科学的なデータによって、このようなとらえ方は間違っていることを明らかになった。即ち、古典や宗教に書かれてきたことは、科学的にも正しかったのである。
まず、データが示すもっとも重要な結論は、「あなたの幸せは、自分一人では生み出せない」ことである。むしろ、データが示すのは、「あなたの幸せは、自分が関わる周りの人たちから与えられるものである」という事実である。すなわち、あなたが幸せになるためには、幸せな集団の一員になることが必要なのである。そして、幸せな集団とは、「周りを幸せにする行動」が豊かな集団のことなのである。
もちろん自分にもできることはある。自分が属する集団の幸せに、あなた自身も重要な影響を与えているからである。あなたは、自ら周りの人たちに幸せな影響を与えることで、属する集団をより幸せな状態にすることに貢献できる。
さらに、周りを幸せにする行動は、直接の影響を超えて、その先に間接的に連鎖していくことも示されている。あなたが直接かかわらない人の幸せにも影響が及ぶのである。
だからあなたは、属する集団の幸せに大変重要な責任を持っているのである。属する集団の幸せを向上すれば、その一員である自分も幸せになれる可能性は当然高まる。これは上記のアランの幸福論に記された「やりとりすることによって何倍にも膨らむ宝物である」をデータが実証したものと解釈できる。
そもそも、周りに幸せにしてもらうだけで、自分が周りを幸せにしない人は、幸せの「ただ乗り」をしている人である。「ただ乗り」という一方通行な関係は不安定で長続きしない。だから、それぞれが自分が属する集団やコミュニティの幸せに貢献することが必要である。そうしないと、その人はその集団全体の幸せ度を単に下げている人であり、そのような人が増えると全体の幸せ度が下がるからである。
幸せのための責任
だからあなたは関わりあう人たちや属する集団の幸せに大きな責任があるのである。周りの人(あるいは隣人)の幸せに責任感を持たねばならないのである。これが「慈悲」や「隣人を愛する」ことの本質だと私は理解している。さらに自分が直接かかわらない人まで影響が及ぶことや、自分が直接かかわったことのない人たちからの影響を受けることに想像力を働かせることが必要なのである。これが仏教でいう「縁」あるいは「縁起」ということの本質だとも私は理解している。だから常に縁起に配慮することが必要なのである。
このような属する集団の幸せに責任感の高い人からなる集団では、自分の直接の損得や見返りを超えて、周りに喜びを生み、周りに貢献する行動が多くなる。それは、上記のような宗教や古典の教えに沿った人格者のイメージにあったものである。しかし、それは必ずしも道徳や宗教に従ったからではないと思われる。このデータが示す事実を、経験あるいは直観によって理解したから自然に起きた行動という場合の方が多いのではないか。
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