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英語の和訳は時代錯誤の試験問題なのか?

ミラノ生まれの息子をミラノで育ててきた。仕事がらみでこちらの大学生たちとのつきあいがある。こうした経験などからイタリアの教育について語れることはそれなりにありますが、日本の子どもの教育の「今」についてぼくが語れることは、あまりないです。メディア記事や大学人も含む友人たちとの会話から、まったく知らないわけではないですが、発言するならばなるべく一呼吸おくようにしています。そのぼくが、この1週間、どうも頭の片隅でモヤモヤしている記事がありました。二呼吸したので、書きます 笑。

早稲田大学国際教養学部の入試で、英語の長文読解にミルの「自由論」が出題されたそうです。これまでの傾向で、時事英語を題材にすることが多かったのが、今回は19世紀の哲学的古典が題材だったというのです。塾の立場から以下の意見が述べられています(有料会員限定の記事なので、なるべく多く掲載しておきます)。

今シーズンの大学入試では英語で注目すべき出題が散見された。京都大学では英文読解問題の出題形式が全て英文和訳となった。近ごろは内容説明問題も織り交ぜられていたが、全ての設問が和訳となったのは2014年以来のことだ。

こうした古典からの出題や「和訳偏重」は、変化が激しくグローバル化が進む現代にあって時代錯誤だという批判もあるだろう。しかし、大学からのメッセージと理解することもできるのではないだろうか

英語力をやしなう目的は本来多様であり、情報処理一辺倒の試験は英語力を測る尺度として貧しすぎる。ミルを出題するのは行き過ぎの感も否めないが、英語の出題が多様化する風潮を大学からの警鐘ととらえるならば、好意的に受け止めることができる

ここ最近の傾向にあった情報処理系とは、資料や広告文を読み取る問題らしいです。ぼくが正確に理解しているかどうかわかりませんが、記載事実そのものの認識を問われるのでしょう。

この記事でぼくが気になる点を挙げてみます。

塾や大学の人はどれほどに社会の動向を視野に入れているのか?

このところ、「教養」「リベラルアーツ」「哲学」という言葉がビジネスパーソン向けに語られています。スキル一辺倒を反省し(あるいは行き詰まりに気づき)、スキルではない素養の部分が強調されているわけですが、これを皮相な現象であるとみる向きと、皮相であっても見ないよりはマシ、というのが大方の見方でしょう。この領域の以前からの「住人」は、このトレンド自体、視界に入っていないはずです。

一方、大学人がスキル重視のビジネス界隈の要望に対して、全面的に納得がいかないにしても無視できなかったとの事情もあったでしょう。古典よりも時事英語を優先し、一定の時間にてきぱきと要点を引き出せる力に注視したのは確かだと想像できます。しかし、一時の「人文系学科は必要か?」との論が闊歩していたときとは違う、明らかに風向きが変わってきたことを意識しているとは思います。

とすると、上記の記事タイトルにも引用されている「大学からの警鐘」とは、記事としては大学受験をひかえる子どもをサポートする塾や親に見方を変えるように「スキル重視路線から外れるよ!と警鐘」しているだけでなく、コロコロと軽はずみに求める人物像を変えるビジネス界に「警鐘」しているようにも読めます。

そもそも、企業がビジネス領域だけをみていてはダメで、社会をみることが重要だと語られているなかで、「ビジネス界のご要望」などに教育界が安易に振り回されているのはよくない。そういう覚悟の意味が記事の裏にあるのかどうかわかりませんが、そのような拡大解釈ができる内容であれば、この記事はさらに面白く読めます。

古典や和訳が時代錯誤になりかねないとの批判って何?

19世紀の文章を英語試験の題材にするのが、今の受験英語の世界のなかでどれほどに異例なのか、素人のぼくには分かりません。ただ、「情報処理系」とカテゴライズされた題材とそうとうに距離があることは分かります。

しかし、それが「時代錯誤」と形容される可能性があると指摘しているのをみると、誰が批判するのだろう?と思います。和訳も同様です。和訳を時代錯誤と言う世界こそが歪なイメージをぼくはもちます。記事では、塾の立場から以下のような指摘も述べています。

情報処理のための英語が大学生の英語力のスタンダードであるはずがない。入学後には英文講読の授業が待っているし、学問を志す大学生が取り組む英語が必ずしも情報処理ばかりを目的とするはずがない。

DeepLの和訳は便利です。しかし、正誤を自分でチェックできないといけない。ChatGPTのアウトプットもスルーで通せない。そういう目的で和訳の力も必要でしょうが、肝心な点はそこではないと思います。外国語文の理解を母国語の理解に移しかえる、つまりは異なる文化の間にある乖離をどういう観点とアプローチで折り合いをつけるか、その思考訓練は和訳作業によってしかできないのではないかと思います。異文化理解の基本です。

その文脈でいくと、19世紀の思想を21世紀の社会文化文脈にどう移し替えるか?という課題は、ちっとも時代錯誤ではないことが分かります。いわば時空を超えるための翻訳の力が求められている今、「ミルを出題するのは行き過ぎの感も否めない」は的外れの感覚になります。

もちろん、「学校教育で何年も英語をやっているのに話せない、使えない」という反省や批判のもとに受験英語も今のカタチになっていると推察します。が、それは口頭試問の増加やコミュニケーション力のレベルで改善をはかることで、現状は違った土俵に違ったやり方を持ち込んで空回りしているように傍からみえます。

いったい誰が批判しているのか?

前述しましたが、こうした外国語教育の試験傾向について、誰が批判する可能性があるのか? とても関心があります。

語学教育の専門家、アカデミックな世界の人、ビジネス界の人、役所の人・・・いろいろと「関係者」と名乗る人は多いはずです。だが、これらの人たちが各々に「あそこの人たちは、分かっていない」とお互いに言い合っている気がします。

どこの分野でも横断的な視野による判断の欠如が指摘されており、この分野だけが例外であるとも思えません。そして当事者である子どもたちは、振り回されるしかない・・・。

そして、これらの問題を一気通貫に解決しようとしている教育システムは、日本においては高額な費用がかかることになっているようです。経済的価値ばかりに換算する社会とは違う社会をつくろうとするのなら、これを「解決」とは呼ばないのが大切だと思います。ただし「もう一つの選択肢」というならば、公的な次元での選択肢に落とし込んでいく必要があります。

ちょっとした受験関係の記事ながら、大きな問題を暗示した内容だと思います。

冒頭の写真©Ken Anzai


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