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「副業解禁」議論への違和感 〜生きるって複業(前編)

終身雇用は破綻し「働き方改革」が言われ、就活のあり方や新しい働き方への関心は高まり続けています。昨年は「副業元年」と言われ、経済誌などでも特集が多く組まれました。(後段述べますが僕自身は理由があって「複業」という言葉を使っています)


複業実践者として、自身や弊社メンバーは取材やイベント登壇の依頼を頂き、複業について話す機会がとても増えたのですが、(特に企業から)「副業を解禁するメリットはあるか?」という質問を受けるたびにどうしても違和感がある(同じく「どっちが主でどっちが副?」という質問も)ので、ちょっと今日はそのあたりのことを書きたいと思います。


女性の「時短」と「量の呪縛」

弊社uni'queは女性が当たり前に活躍できる機会を増やすために、「時短」と「感性」をキーワードに事業を展開・経営しています。プロダクトとしても「時短」と「感性」を大事にしていて、アプリひとつで「時短ネイル」を楽しめ、スキマ時間でデザイナーとしても活躍できるサービスYourNailで多くの女性に楽しんでいただいています。

そしてこの「時短」というキーワードから、「全員複業」でスタートアップするというルールが産まれました


僕は起業前、いわゆる大企業に勤めていました。どちらもとても「ホワイト」で働きやすい企業だったし、産休・育休や産後の復職などを考えてもかなり充実した制度があったと思います。しかし、それでも女性が十分に活躍できているとは思えなかった。

女性は、産休・育休を取得して復職しても、その後保育園への送り迎えがありいわゆる「時短」というワークスタイルを取らざるを得ないことが多い。そして「時短」の女性は、職場では「半人前」のような扱いを受けて肩身の狭い思いをしたり、配属で受け入れを嫌われたり、出世からも遠ざかってしまう、というのが実態としてありました(なので「時短ネイル」の時短と違い、勤務における「時短」にはネガティブなニュアンスがあります)。ダイバーシティというものは制度でいくら女性に手厚くしても、意識が変わらないと十全には機能しません。


「滅私奉公」という言葉が日本にはあります。

会社や仕事に全ての時間を捧げることが美徳とされ、かつて「腰掛け」という言葉があったように女性が子育てしながら仕事することは「片手間」のように低く見られがちです。

しかし「滅私奉公」という言葉ですら、本来はそういう意味ではありません。

日本の企業の特徴のひとつとして、企業の公共性や社会貢献の度合とは関係なく、企業内における封建制下の主君と家臣のような関係性を指して、変則的に滅私奉公と表現されることがある。この企業内で完結する滅私奉公の強要が、過労、サービス残業、休日出勤、有給休暇の未消化といった労働問題の原因になっているとの指摘もある[1]

奉公の公はPublic。「企業は社会の公器」というように本来大事なのは、社会に対するバリューです。社会への貢献、という目でみると(子供は未来の社会への宝ですから)「働くママ」は「ママ業」と「企業」とで2つバリューを発揮している。なのに、なぜ一つの「企業」でしかバリューを発揮していないおじさんの方が偉いのか。

uni'queでは「量の呪縛」と呼んでいるのですが、企業で長い時間働いた方が偉い、という考え方の中ではどうしても男性が有利です。そしてこの「沢山働くと偉い」というのは「量をつくれば売れた時代」の名残りに過ぎず、工場のような「巨大なもの」から「ユニークなもの」に価値のパラダイムが移った成熟市場ではもはや合理性はないのではないでしょうか。(日本の順位が働きすぎの割に生産性の低いことはその証左でしょう)。それよりも、短時間でバリューを出し、一企業にとどまらず機会があればどんどん社会にバリューを出していくべきだと考えます。(最近は減ったと思いますが、上司よりも長く会社に残る、とか残業代のためにだらだら仕事する、というのは「量の呪縛」が生んだ本末転倒ですよね)


「副業解禁」議論の不自然さ

このように考えると、「副業を解禁するのにメリットはあるか?」という議論がそもそも一企業でのバリューの専有を前提とした、一面的なものだというように見えてきます。人はそもそも企業のためだけに存在するのではありません。うちの会社だけに全時間を注ぎ、おれ以外にバリューを発揮するな、というのは実は他の男と会うことも許さない束縛の強い彼氏のようにエゴイスティックな論理です。


また、副業解禁の是非をいう時に正論としてよく言われるのが「過重労働」です。副業をOKにすると労務管理ができず過重労働が起きるから社会的にもこれを抑止すべき、というもので、これは一見労働者の立場に立った思いやりの議論にも思えます。しかしこの論理から「副業禁止」をいうのも、実はすでに破綻した論理だと僕は思っています。

なぜなら、働くママは昔から副業をしてきたからです。

「過重労働」は確かに問題ですし、避けるべきでしょう。しかし実際には「副業」を禁じたからと言って過重労働はほとんど抑止できないのです。

たとえば働くママは過重労働を強いられてはいないでしょうか?あるいは家族の介護を抱える人は?そういう人はそもそも、企業で仕事をして、その後に土日もなく重い労働をしてきたのです。副業禁止、ということは子育てをするな、ということでしょうか。

ママ業はお金を稼いでいるわけではないから「副業」じゃないでしょ、という方もいます。しかしそういう人でも同じ口で「専業主婦は〜」とかいうのです。じゃあ業じゃん

社会へのバリューの観点からも過重労働の観点からもママ業はちゃんと「業」として捉えられるべきだと僕は思います。そもそもそれが業として認められないために主婦の仕事の価値が軽く見られたり、ママが倒れそうなほど働いていても家事や育児は女性任せになっていたりするのです。「ママ業」も立派な仕事なのに「業」として認められず、社会活動から「なかったこと」にされている、それがそもそもとても不自然なことだと思います。

また僕は複業の相談を受けることも多いのですが、会社が「副業禁止」だけどその仕事はしたい時、お金をもらわずに働くのならセーフみたいなことをよく聞きます。これ「過重労働」の抑止になってますか?むしろ「禁止だからタダ働きならOK」って本末転倒も甚だしいと思う。ママ業も含め、本気で過重労働対策したいなら、禁止して無かったことにするのではなく、むしろ見える化して周囲がサポートする、というのが本来のあり方ではないでしょうか。


子育ては「パパ業」だし、主も副もない

そしてもう一つ、男性優位の「量の呪縛」の中を生きてきた人たちは、誇らしげに「会社に全てを捧げてきた」と言ったりします。先の「腰掛け」や「時短」を下に見る態度はその裏返しです。

しかし、子育てという仕事は本来、女性だけのものではありません。それも大事な仕事だと考えると、「会社に全てを捧げてきた」というのは「パパ業に関しては全く無能で、仕事ができなかった」ということになります。彼が仕事を選り好んだり、怠けたりした結果、溜まった仕事はずっと他の人がやってくれていたわけです。もし会社の上司や後輩がこういう人だったら、困りますよね。。まじで。。

とはいえ、人には得手不得手はあります。あらゆる仕事をしなければならない、とかより多くの種類の仕事をすればえらい、というのでもありません。あらゆるものを犠牲にして、自分が出せる一つのバリューに集中することで大きく世の中を変える人もいます。ただ、言いたいのは、バリューは必ずしも一つの会社だけで発揮しなきゃいけないこともないし、発揮しきれるものでもないし、そもそも企業での仕事だけではなく、家庭やボランティアも含め、社会に出るバリューの総和である、と考えるべきだと思います。そのそれぞれをちゃんと「業」として認め、敬意を払って、分担し合ったりサポートし合ったりしていくべきなのではないでしょうか。


「副業を解禁すべきか?」という話が出る時、「お金をもらう企業での仕事」に限られ、子育て業やボランティアなどはそのスコープに入らず、「なかったことに」されているのが僕が感じる違和感です。人は仕事や家庭や、恋や、人生において色々な業を複数こなしながら生きています。ライフステージや時期によってどれかが重要だったりどれかに全力で注力するということはありますが、どれが「主」で「副」か必ずしも決められるものではないのではないでしょうか。(我が子を「副」といえるでしょうか)


という感じに、
「複業って最高!」
「複業すれば成績もメキメキ上がってモテモテに!」
みたいなことを書いてきましたが、複業スタイルで1年半くらいスタートアップしてきて、実際大変なことも結構ありました。何なら「さすがに死ぬかもしれない…」とつい先月思いました。ただそういう複業の大変さは、そういうワークスタイルにシフトしていけば工夫次第で解決していける実感もあります。苦労話や失敗談は、これから複業したい人や複業している人、複業を活用したい企業の何らかの参考にはなるかもしれないので、次回はそういう複業ならではの苦労と工夫について書きたいと思います。

まて次号!


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