人は誰かに自分の話を聞いてもらいたいものだ
「誰かの講演会をお金を払って聞きに行く」というのはまあ普通の話ですが、これから需要があるのは「誰かに話を聞いてもらいたいので金を払って客を呼ぶ」ってイベントなんじゃないか、と。
主催はお金に余裕のあるおっさん。
客が金を払うのではなく、話を聞いてもらいたいおっさんが来てくれた客(客というのかな)にお金を支払うということ。
要するに、「おっさんが自分語りをするために金を払うイベント」であり、「おっさんの自分語りを聞けば金がもらえる仕事」です。
誰もが経験したと思うんですが、上司とかの話って本当時間の無駄というか、ウザいことこの上ないですよね。でも、それを「はいはい」と聞いていれば金がもらえるとしたらどうでしょう?まあ、仕事だと思えばいいと思いませんか?
一方、おっさんの側です。昔は、部下や後輩に対して思う存分説教(というか、ストレスのはけ口として、下の人間をマウントしてただけという場合も多い)しても問題ありませんでしたが、今では説教なんてパワハラになる。部下を思っての善意の説教でさえ、告発されることだってあります。
飲み会でも自分語りするおっさんは嫌われる。
そんな時、こういうイベントは、まさに両者にとって「渡りに船」というか「WIN-WIN」の仕組みになりますね。
大昔は、年長者や長老の話というのは、その長い経験や豊富な知識に基づいた貴重な「知的コンテンツ」でしたが、今はそんなものはググれば済むし、ChatGPTに聞けばいい。
こうして、普通のおっさんたちにとって、自分の承認欲求や達成欲求を満足させられる日常の「自分語り」の機会は失われてしまったのです。
若い人は「別にそれでいいじゃん。何か問題でも?くだらねえおっさんの話なんか無駄だし」と思うかもしれません。
しかし、おっさんになるとわかりますが、悲しいかな、話を聞いてくれる相手というのが年齢とともにいなくなるものです。会社にも、家庭にも。
この欲求が満たされないとどうなるかというと、コンビニや飲食店の店員にがなり立てたりして帳尻合わせしようとするわけですね。Xでもやたら自分語りをするウザイ奴がいるけど、それはそれで全然関係のない人に迷惑の火の粉がかかります。
そんなおっさんのために、この「金を払えば若者が話を聞いてくれる」というコンテンツは、まさに「おっさんのためのエモ消費商品」になりえるわけです。
エモ消費とは、承認と達成という精神的価値を満足させ、自己の社会的役割を確認するために人は金を支払うようになるという、僕が作った消費形態の造語です。
それについてはこちらの書籍に書きました。
noteにも2018年に書いてる。
例えば、おっさんが1時間話をする、説教する、みたいなイベントを、一人「▲3000円」で売り出せばいいわけですね。参加者は3000円を払うのではなく、3000円を受け取れる。10人呼べば、おっさんは3万円を払って、思う存分若者に対して説教することができる。来たお客さんは、当然仕事ですから、おっさんの話に(内心、クソが! と思っても)うんうんとヘドバンしとけばいいわけです。
イベントじゃなくても1対1でもいい。
おっさんは金を払うけど十分に精神的満足を得るし、若者は金を手に入れる。
いいことづくめじゃないですか。
勿論、すべて無言で聞くだけじゃなくて、おっさんの刺激になるような質問をしてもいい。それでさらに話をしたいと思ったら、池上彰のように「いい質問ですね~」といっておっさんはさらにチップを出してお話する、と。
幸い金はあるおっさんなら、こうして若者へ所得の再分配をすればいい。経済とはそうやって回していくもんですし、そもそもお金が回ることだけが経済じゃなくて、お金はあくまで共通の記号として使われているだけ。つまりは、気持ちや感情が(お金という形にのせて)回ることこそが経済の基本なんですよ。「情けは人のためならず」ってそういうことだし。
…とここまで書いて気付いたんですが、これってキャバクラやガールズバーと一緒でしたwww。
ちなみに、おっさんに限らずだけど、自分語りは脳にとって快感です。性行為に匹敵するくらい。他にもギャンブルや飲酒など同じくらいのドーパミンを得られる。おっさんたちがキャバクラやガールズバーで語りたがるのもそのため。
但し、注意した方がいいのは、快感だからこそ依存症になりがちなこと。
武勇伝にしろ自虐ネタにしろ愚痴にしろ自分語りをする人は必ずしも事実を述べない。盛るし、嘘が付加されるし、しまいには、自分が作った虚構によって自己認知するという逆転現象にもなる。虚構の自分と現実の自分との区別がつかなくなるとそれはそれでヤバい。
「話を聞いてくれる」だけでいいのならAIでもいいのでは?という話もあるが、多分人間だと思っていたのがAIだったまならまだしも、最初からAI相手だとどうなんだろうと思う。
人間が聞いてくれるから、若者が聞いてくれるから、俺の話がどこかの若者の何かの役に立ってくれると話し手が信じられるから(勘違いでも)、価値があるんじゃないかなと思う。
Xのようなテキストのやり取りとは、会話はまた違うし。
すでにこういうのをやっている人もいる。
おかげさまで、僕は講演とかいろいろ呼ばれるけど、コロナ禍中はzoomなどでのリモート講演依頼も多かったですが、あれ嫌なんですよね。生の人間を目の前にしてリアルでやらないと。発した言葉にどんな反応があるのかはその場の空気から伝わってくるものだし。
おっと、無意識に「おっさんの自分語り」をしてしまったようだ。このへんにしておこう。