夫婦別姓制度の後退にみる、日本を蝕む3つの病
お疲れさまです。uni'que若宮です。
今日は夫婦別姓問題について書きたいと思います。
選択的夫婦別姓制度に関しては、国民の多くが望んでいるデータも出ているにも関わらず、実現に向けて進むどころか後退するという残念な状況になっています。
計画は2000年に始まり、今回が第5次だ。第1次から4次までは、選択的夫婦別氏(姓)制度という言葉を明記していた。この文言がなくなり「夫婦の氏に関する具体的な制度」というあいまいな表現になった。政府として「必要な対応を進める」という第5次の当初案も、「さらなる検討を進める」にトーンダウンした。
世論の調査でも過半数が賛成するのに、なぜか議論が進まない。どうしてこんなことが起こるのでしょうか?理由は強硬な反対派がいるからですが、ここには日本の抱える3つの病が見て取れます。
1)「伝統」の名を借りた「強制」
反対派の議員が繰り返すのは「夫婦別姓だと家族が一体的でなくなる」というものですが、これは2重に正当性のない反対意見だと思います。
まず、「なぜ別姓だと家族の一体感がなくなるのか」ということに対して根拠のある説明はありません。たしかにチーム名など「ラベル」がチームにある種の一体感をもたらすことはあります。しかし、同じ名前の人としか一体感を持てないか、というとそんなことはなく、たとえば現状でも、どちらかの親が別姓であったとしても家族として大事であることにはかわりはありません。別姓に反対している人は、姓がちがう親を「姓が違うからやっぱりうっすら他人」だと思っているのでしょうか?家族の一体感は「ラベル」に頼るより日々の関係の中でつくられるものなはずです。
といっても、まあ、「ラベル」の重要性については人それぞれの考え方もあるので完全に否定はしません。うちの家族はみんなこっちの名前にしたい!だってかっこいいじゃん!と満場一致ならその家族の一体感の証になるかもしれません。
で、なので「選択的」でよくない?と言っているわけです。
家庭ごとに「別姓」も「同姓」も選べるようにする、といっているだけで、全員が別姓にしろ、と強制しているわけではないのです。
以前こんなツイートをしましたが、
よく考えてみると、いままで選択肢がなかったことの方がかなり制約された状況だったのです。言い換えるなら、現状の制度はどちらかが「強制的改姓」させられることによって成り立っている「強制的同姓」制度だったわけです。
反対意見のもう一つに、「家族の伝統が壊れる」というのもあります。しかし、誰かを犠牲にした「強制」によってしか成り立たない「伝統」を果たしていつまで続けていくべきでしょうか?
「伝統」というと、似たような議論が「はんこ」の時にありました。はんこがなくてもOKになり「強制」がなくなるとはんこ文化がなくなる、と。でもそれって無理やり守らされてきただけで誰もやりたくなかったってことですよね?「強制」ではなく「選択」に委ねたとしても、もし本当に「よい伝統」なら受け継がれていくのではないでしょうか?
謎の校則などもそうですが、「伝統」という言葉は保守的な立場からはしばしば、無根拠に正当性を主張できるマジックワードとして使われています。しかし「伝統」という言葉が発せられる時、そうした「根拠のない正当性」を使わなければすでに保持できなくなってしまった「強制」の不都合を押し隠すために言われていることが多いのです。
2)強者にとってはデメリットにしか「見えない」
またこの時、「強制」のしわ寄せを受けているのは、相対的に弱い立場にある人達やマイノリティーです。
ジェンダーバランスの問題もそうですが、なにか変えようとした時に反対や批判を言ってくるのは実は社会的強者やマジョリティーであることが多くあります。僕がジェンダーについて個人的な宣言をした時にもいくつか批判がありましたが、それはすべて男性からのものでした。
彼らは客観的な顔つきをして、「能力主義の公平」というような正論を語ります。しかしその内実は、「これまで別になにも困ってないんだからわざわざ変える必要がない」ということなのです。
彼らは本気でそう信じています。なぜかというと、彼らは本当に「なにも困っていない」からです。社会的強者やマジョリティーは、自分が有利になるよう作られた環境の中にいるため「問題に気づけない」のです。「特に問題ないのに騒ぐな」と彼らがいうのに対し、弱者である女性からは沢山の賛同の声をいただきました。これは「問題がない」のではなく「彼らに見えない」だけだということの証左です。
選択的別姓制度に関しても同様で、日本では内閣や国会の議員の多くが年配男性ですが、彼らは「強制的改姓」で困った経験のない人達なのです。そして、その「強制」によってさまざまな不便を「女性」に押し付けて来たのです。
不便を他者に押し付けることで自らは楽をしてきた彼らにとって、制度を変えることにはメリットはありません。むしろ、これまでは「自明」のこととして「100%特権」の中にいられた立場からすると、「選択」を受け入れるだけでも特権が揺らぐ可能性があります。
たとえば、誰かが優先的に人から何かを買える特権を持っていたとします。他の人よりも先にその人は特権的にそれを好きなだけ買えるのです。商品の在庫が有限なら、完全に特権を享受するためには、他の人は排除し「買えない」ようにします。もしこれを自由化し、他の人も早く買いに行けば買える、とルール変更するとしましょう。そうするとその人が「買う特権」をもったままだとしても、相対的に「特権」が弱まるように思われるのです。
ですから、既得権益をもった人は、他の人にもその権利を与えるよりは、権利を自分に集中させておきたい、と考えます。
「家族の一体感」や「能力主義」と正論っぽいことを言っていますが、要は自分の「特権」を手放したくないだけなのです。
「家族の一体感」に「同姓」がどうしても必要なら、「強制的改姓」させられるのは男性も引き受けるべきですよね。しかし、こういう「同姓」制度には反対派はむしろもっと反対するでしょう。
3)政治は誰のものか
また、今回の後退は明らかに一部の古参議員のごり押しが原因です。
「社内政治」や「政治力」という言葉があるように、「政治」という語には「権力をつかって操作する」という悪い意味がありますが、まさに今回の「後退」はこうした「政治」によるものです。
少数の議員ではあるが、強力に反対しているのが、2)に見たようにこれまで「特権」をもってきた「強者」なわけです。そうすると、その少数の意見が通ってしまう。
日本は議員内閣制をとっていますから、本来、政治家というのは国民の代表であるべきです。民意を無視して「自分のエゴ」を通すのは「公職」としてあるまじき姿であり「私物化」でしょう。こうした「エゴ特権」を排除できる仕組みがない、というのが日本の政治の(あるいは社会の)大きな問題だと思います。
1)制度を盾にした「強制」によって、2)「強者」が自分たちの特権を享受し続け、3)特権エゴを組織が排除できない、というのは、民主主義というよりほとんど独裁政治です。民間企業に置き換えたら完全なブラック企業ですよね。
政治について、小川淳也さんは
政治っていうのは、勝った51がどれだけ残りの49を背負うかなんです。でも勝った51が勝った51のために政治をしてるんですよ、いま
とおっしゃっていますが、実情はそれよりもっと悪いのです。
勝った51のためどころか、そのうちのたった5くらいのためだけの政治をしているわけです。
こうした構造が多くの「政治」的な場に仕込まれています。選択的夫婦別姓ひとつの議論に限らず、こうした構造を反省し、
1)見えざる「強制」への想像力を働かせ、
2)「強者」の権力は「弱者」の選択肢を増やすために使い、
3)特権エゴを排除できる自浄作用をもつ、
そういう政治を本気で選びとっていく、民主主義をアップデートすべき分岐点に来ているのではないでしょうか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?