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「リーダーの成長」ではなく「私の再構成」へ ーポリフォニーが編む新しい主語

「リーダーの垂直的成長」を問い直す

多くの人が「リーダー」に期待するのは、ゴールに向かうために何をするべきか指揮をする「方向づけ」の機能でしょう。

リーダーにまつわる研修やセミナー、書籍をのぞいてみると、「視座を高める」「思考スキルを鍛える」といった“個人トレーニング”に焦点が当たりがちです。スキルを身につけ、視座を高めた先で「垂直的成長」が促されたと表現されることがあります。

「垂直的成長」とは、成人発達理論などで使われる言葉です。課題と向き合ううえで基本的な姿勢を維持したまま新しい知識やスキルを身につけることを「水平的な成長」と呼び、自らが認知する世界を一段高い視点から把握し、広く、深く思考するようになることを「垂直的な成長」と呼びます。(参照:『人が成長するとは、どういうことか』鈴木規夫)

もちろん、そうした個人のスキルや思考力、視座の変化が組織の活動に役立つ側面はあります。けれども、リーダーの成長とはそうした個人の能力の成長とイコールなのでしょうか。

ぼくがずっと考えているのは、リーダーシップは能力開発によって成長させるものではなく「関係性のなかで主語が再構成されること」によって変化するものなのではないかということです。

拡散的で誰が主役なのかわからない多様な声が響くなかで、リーダー自身のなかに「私をふくむ私たち」という主語が芽生えることが、リーダーとしての自身を再構成するプロセスなのではないか。そんな問いが、今回の記事の出発点です。


主語の変容が起きた出来事

ぼく自身が、チームを主語にする意識に変わった経験について書いてみます。

印象深いのは、かつてマネジメントしていた「butai」というチームでの出来事です。このチームは2020年に立ち上げてから4年間続き、MIMIGURIのマトリクス型組織の1チームであり、ファシリテーションの職能集団でした。特にアートを背景にしたファシリテーターたちが中心となり、演劇を取り入れたワークショップやプレイフルな場作りを手がけていました。

当初、マネージャーとしてのぼく自身の役割がよくわからず、正直に言えば苦しい時期もありました。

ある時、チームビルディングの一環として、「自分たちのチームらしさ」を掘り下げるワークショップを半日かけて行いました。私たちらしく、「このチームで起きてほしいこと」「起きてほしくないこと」「よくわからないこと」の3つを書き出し、「すごろく遊び」をしながら対話をするというプレイフルなワークでした。

その対話のなかで、「butaiの中で大げんかが起きたらどうする?」とか「社長たちが大げんかしてぼくらにしか止められないとしたらどんな手段で止めた?」とか、妄想のなかに「けんか」というキーワードが出てきました。

また、ダイバーシティや格差への問題意識から、butaiが「教育事業」や「非営利事業」を始めるといった妄想を始めるメンバーもいました。ほかにも、「我々の知識がAIプロダクト化したら」「我々の知識をゲームにしたら大ヒット、どんなゲーム?」「お菓子メーカーからコラボの依頼がきた!どんな依頼?」といった遊び心ある妄想が広がっていきました。

何が主役なのかよくわからない多声的で、拡散的な遊びの対話が起きていました。

共通の探究テーマを見出し、対話を重ねた経験

そのプレイフルな妄想プロセスの中で、ぼくの中にbutaiの共通点は「批評的な遊び」なのではないかという言葉が浮かび上がりました。

この「批評的」というのは、組織の奥に根付いている社会課題(たとえば、人間関係のコンフリクト課題から、多様性の問題や格差の問題など)から目を背けるのではなく、それが何であるかを深く考え、議論の俎上にあげていく姿勢を指します。ただし、それを真剣に議論するだけではなく、遊び心を持って新しいアプローチを模索するというのが、私たちの姿勢なのではないか?とひらめいたのです。

その後、この「批評的な遊び」を軸にして、メンバーそれぞれが自分のプロジェクトを振り返り、キーワードを基に探究を深めていく週次のプログラムを進めました。それぞれが、それぞれのプロジェクトのなかで「批評的な遊び」について思考をめぐらせ、実践しているのを聴きあう活動を行いました。

当時のmiroのボード。毎週問いを変えながら、探究していきました。

このプロセスのなかで「批評的な遊び」というぼく自身が暗黙のうちに探究していたことを、みんなと共に探究できている感覚が湧き上がってきました。マネジャーでありながらぼくはこのチームの素朴な一員であることを実感できたのです。

この経験を経て、「自分をふくめてテーマを共有するチームのメンバーがいろんなところで活躍できるように、自分にできることはなにか?」を考えるようになりました。プロジェクトのデリバリーを自分自身で行うのではなく、メンバーがプロジェクトを推進するのをサポートすることや、プロジェクトのふりかえりをサポートすることも、「批評的な遊び」を社会に展開していくために担える役割だと体感できたのです。


ポリフォニー/オープンダイアローグから学ぶ「多声性」

このbutaiのチームビルディングの機会は、ぼくにとって忘れ難い経験になっています。何が主役なのかよくわからない多声的で、拡散的な遊びの対話のなかで、「私」が他者の声を聞く過程で少しずつ変わっていくことを経験しました。これはいったい、どのような現象だったのでしょうか。

ヒントになるのが「ポリフォニー(多声性)」という概念です。音楽用語で「複数の独立した旋律が同時に響く」状態を指して使われます。

たとえば、ピアノの楽譜で右手がメロディを弾き、左手が伴奏する場合、大抵は右手の旋律が“主役”になり、左手は脇役になります。これを「ホモフォニー」と呼ぶそうです。一方、「ポリフォニー」では右手と左手が同等の役割を担い、どちらにも主役のような旋律が与えられ、両者が競い合い、調和し、互いを変化させ合いながら進んでいくといいます。(Xで教えていただきました

そこには旋律の優劣がありません。声(旋律)の数だけ“小さな主役”が存在し、それぞれが自分らしいリズムや色彩を放ちつつ、ときに摩擦を生み、ときに溶け合って、群像劇を見るかのような音楽体験を生み出します。

この「ポリフォニー」を、ロシアの文芸批評家バフチンは、ドストエフスキーの小説に対して用いたところから解釈の幅が広がりました。この概念は、現在では「オープンダイアローグ」というフィンランド発祥の精神医療の新しい実践システムにも広がっています。(参照:『ナラティヴと共同性』野口裕二)

ここでは、友人、近密、同意、他の接助専門職など本人に関わりのあるネットワークメンバーが一堂に会し、車座になってミーティングをおこないます。そして、このとき、医療関係者も単なる一参加者として思いや感想を述べる。参加者全員が聞いている状況のなかで、さまざまな組み合わせによる対話がおこなわれます。まさに多声的な状態です。

*オープンダイアローグについて紹介された星野概念さんのコラム。

「私の問題」から「私たちの問題」へ

ぼくが「リーダーの垂直的成長」として捉え直したいのは、個人のスキル学習によるものではなく、“多声の響き合い”から生まれる、「私」という主語の変容です。「自分が他者との対話によって変えられていく」過程です。

「私」の問題だと思っていたことが、いつの間にか「私たちの問題」に拡張されている。そのプロセスのなかで、声と声がむすびあい、編み目をなしていく。その編み目が「私たちの問題」を背負うネットワークを織りなしていく。このネットワークのなかにいる私を実感することが、リーダーとしての自己像の再構成なのではないかと感じるのです。


リーダーシップは決して「一人が率いる力」に還元されるものではない。むしろ、集団の共通目標に向かうなかで交わされる対話や、そこから生まれる多様な声の編み合わせがリーダーシップの源泉なのだと思います。ゴールへの道筋を示すのは大事ですが、その道筋は一人の視点からだけではなく、あちこちからの声が響き合うなかで次第に浮かび上がるものでしょう。

あなたが属するチームでは、どんな声が響いているでしょうか。「成長」という縦方向のイメージに囚われず、関係性のなかでお互いの声を少しずつ重ねていく。そのプロセスに新しい主語「私を含む私たち」が芽吹く可能性を感じています。

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臼井 隆志|Art Educator
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