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デジタルサービスの分断化を嘆くのか?喜ぶのか?- スレッズ未公開の地域にいて思うこと。

フェースブックのメタが公開したアプリ、「Threads(スレッズ)」がツイッターへの対抗馬として話題になっています。

ただし、ぼくの立場では、ツイッターやフェースブックで日本の人たちの投稿をみて「スレッズというアプリに一部の人たちがざわざわし始めたらしいと感じている」との表現が適切です。

というのも、このアプリは100か国以上で公開されたようですが、EU圏内では未公開のため、ぼくの周囲ではさほど話題になっていないからです。

当初、ぼくはEUが何らかの「待った」をかけているのかと思ったのですが、欧州の複数の記事を読むと、EUのDigital Markets ActDigital Services Act のメタへの影響が読みづらく、EUでの投入の結論が出ていないようです。

今年の3月末から1か月少々、イタリアでChatGPTが使用停止されましたが、最近、このようにグローバル化されたアプリの分断化現象がみられるようになっています。

中国やウクライナ侵略以降のロシアなどの例も分断の別の面だし、あるいはYahoo! JAPANがEUでの規制に合致させるにはコストがかかりすぎ(ビジネス上のプロフィットに見合わない)EUでは同サイトに飛べないのも、分断化の一変種です。

グローバルという表現に楽観性を伴わず、そのサイズに制限がかかる傾向はすでに10年くらい前からあります。

そのような状況にあって、EUは世界のルールメーカーとしての地位を獲得すべく、他国に先駆け、いわば理念型の規制を設定してきました。

ただ、戦略的であることは確かでありながら、その理念がこれまでの思想の発展系として極めて自然である部分が多いのも事実です。単にノスタルジーに基づいて、規模優先の経済に慎重になっているのでもない。

テクノロジーに乗り遅れて時代の趨勢についていけないー ツイッターの対抗馬に乗るかどうかは、テクノロジーの話ではない商売の話でしょうーとのレベルで議論することでもない。

ぼくが、今回のことで殊に思うのは、自分の気に入る考え方に合わせて住む場所を選ぶ意味が増してきた、ということです。

自然環境や文化風土、人間関係で住むところを選ぶ。これは従来からある動機です。

もちろん、かつて欧州から新大陸としての米国に移動した人たちも、旧大陸の考え方に不満があったり、現代における政治亡命も、基本的には考え方の違いに起因しています。

ただ、ここでぼくが指摘したいのは、文化風土のなかにデジタルと人間あるいは社会との関係についての考え方の差異が、大きなサイズでの地域選択に効いてくる時代になっているとの点です。

エストニアやデンマークなどの欧州の国やシンガポールのように行政にデジタル化が進んでいるかどうかもさることながら、デジタルと人の距離やその適切なサイズのあり方 ー個人情報の扱いやビジネスサイズの正当性ーを慎重に議論する土壌があるか?が、気になる人には気になる。

よって進んでいるとか遅れている、という尺度とは違うレベルでの「デジタル化との相性」が、これから更にフォーカスされていくのでは?と思うのですね。

写真©Ken Anzai



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