「良い会社」は個性を磨く
私たち働き手を含む社会が「良い会社」を判断する基準は、今日大きな転換点に立つ。企業と社会の関係成熟を背景に、これからの「良い会社」にはより「個性」が求められると考える。
記憶に新しい会社と社会の立ち位置を、3つのフェーズに分けてみよう。1990年代くらいまでは、業績拡大を重視し、成長を支える社員に滅私奉公を求める代わり、生涯の安定を保証する「厳しいけれど頼れるお父さん」のような会社が「良い会社」の典型だっただろう。伝統的な家父長制度が企業と個人の関係にも投影された「大きな会社と小さな個人」の時代と言える。
ところが2000年代に入り、終身雇用は徐々に終わりを迎える。転職は当たり前、ワークライフバランスやコンプライアンス意識が高まり、働き手の態度は、会社への従属からより独立志向に移った。一体家族型だった企業と個人の距離が離れたとも言える。雇い主と雇われ側のお互いが冷ややかな態度をとるクールダウンは、2020年パンデミックで決定的なものとなった。会社に行くことなしに仕事が進み、同僚に会うこともない。組織の結束はいや応なしにほどけてゆく。
そして、第三のフェーズは、対面の交流が帰ってきたこれからである。私はこれまでの変遷を経て、企業と働き手の関係はより成熟し、対等に向き合う時代になると考える。ワークライフバランスとは、仕事とパーソナルを二元的にとらえる考え方だ。知識経済では、この考え方が進化して、より統合された「ワークインライフ」や「ライフインワーク」の概念が主流となるだろう。
この第三フェーズで、働き手は会社に何を求めるのか?それは、第一フェーズの成長神話ではなく、第二フェーズの福利厚生・ワークライフバランス重視でもない。どんな哲学に基づいてその会社が運営されているかという「個性」ではないだろうか?
日本全体、あるいはグローバルで成長神話には疑問符が付く。成長できたとしても、その反面で大きな負のコスト-格差拡大や環境破壊-が明らかになったからだ。
さらに、ワークライフバランスだけを重視しても、自己の働きがい、生きがいには直接つながらない。結局、一日起きている時間の大半を過ごす仕事には、ワークライフバランス以上のものが求められる。
このように会社と社会の関係が成熟すると、この組織は自分の人生哲学とどこか共鳴する、ここにいることで自分が目指す方向でより高みに行けるという個人と組織の整合がより重要になる。会社に求められる「個性」とは、パーパスであり文化であり、何かその会社を際立たせる処世観と言えるのではないか?
最近、ある大企業幹部との会話で、「究極的には、どんな会社も、PEファンドのようにポートフォリオの出し入れだけでリターンを最大化する存在に収れんするのではないか?」という悲観的な発言を聞いた。株主価値を最大化するという目的関数を持てば正しい在り方ではあるが、会社の魂は感じられない。魂となるのは個性であり、それがあってこそ、より良い才能を集められるのではないだろうか?
たとえ同じセクターにあったとしても、二つの会社はまったく違う個性を持つかもしれない。個性を尊重しようと思えば、採用基準や昇進の際、影の基準としてそれは効いてくることになる。
では、そのような個々企業の個性は、資本主義と相いれるのだろうか?株主偏重主義が見直され、地球環境はもとより従業員やコミュニティを重視する流れが勢いを増す今、私は十分相いれると考える。
日本酒で言えば酒米を究極まで研ぎ澄ますと「大吟醸」だが、その手前で止めれば酒米に残るいろいろな「雑味」が個性豊かな純米大吟醸を生み出す。同じように、企業の個性は「雑味」であり、それこそが多様性の源泉ではないか?
働き手は会社の個性を評価し、自分の価値観にあった先を「良い会社」として選択する。そのような時代の幕開けにわれわれはいるのだろう。