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DEIの原点へ戻ろう

トランプ大統領が2期目を始めてから、Diversity, Equity and Inclusion(DEI:多様性、公平性、包括性)運動の受ける逆風は大きい。政権の意向を受け、特に、リベラルでDEI推進派だと思われがちなテクノロジー企業で率先してDEI縮小の動きがみられることは興味深い。テク企業の左派イメージは主に従業員が作ったもので、経営者は必ずしもそうではなかったという証左だろう。

日本の産業界からは、「米国が唱えたからDEIに乗ったのに、今度は米国がやめるの?」とぼやきが聞こえる。しかし、米国の風向きがどうあろうと「言われたからやる」DEIには意味がない。そもそもDEIは何を問題と定義し、それによってどんな世界を作りたかったのか?原点に立ち戻って正しい行動をとることが大切だ。

DEIは、世の中の構造的な差別をなくし、その結果、純粋に能力ベースで全ての人が評価されることを目指している。もちろん能力は経験によって作られる部分があり、その経験は個人の生い立ちや環境に左右されるので、「純粋に能力ベースで」というのはあくまで理想論にすぎない。しかし、DEIはそこを目指し、その結果いろいろな人が混ざって(Diversity)お互いに助け合う(Inclusive)世界観を描く。

構造的な差別をなくすためには、不利を被る人たちに何か補助をしなければいけない。これがEquity-結果平等-の考え方だ:皆に等しく機会を与えるのではなく、初めから不利な人には不利を解消するように―「げたを履かせる」という言い方を評価会議で聞く―働きかけ、等しく成功の機会を持てるようにする。これは頭では分かるが、なかなか実行するのは難しい。そして、この難しさにこそ、DEIが逆風を受ける根本原因が潜んでいる。

問題は二つある。まず、「げたを履かせる」ことに関する思い違いだ。不利を解消して同じ土俵に立たせるための措置だが、そもそも能力ベースで評価される世界を目指すのに「げたを履かせる」とは、一見矛盾しているように見える。

さらに難題は、個人個人のケースから、構造的差別の影響だけを取り出すことが難しいことだ。例えば、デスクワークなのに「車いすの人は応募できない」という要項があれば、構造的差別としてその条項を除くことはたやすい。しかし、例えば「ある大手会社は男社会で回っているので、女性部長にはなんとなく仕事が回ってきにくい」といった微妙な事情をどう勘案して、女性の業績評価にどれだけ「げたを履かせる」のかという問題に明快に答えることは難しい。

DEI反対派からは、DEIが実際には能力の乏しい人にまで下駄を履かせすぎたために、全体の組織能力が下がってしまったと攻撃されるゆえんである。
しかし、今吹き荒れるDEIの否定は白人男性至上主義への揺り戻しであり、それが全体の組織能力向上に資するとは到底思えない。一方で、構造的差別は、昭和的な「女性は同期の男性が全員昇進するまで昇進できない」などあからさまなものはなくなったとは言え、今も完全にはなくなっていない。

日本企業としては、Equity実現の難しさを理解した上で、地道に構造的差別を取り除く作業を続けなければならない。その先に、能力の高いいろいろな人が混ざって(Diversity)お互いに助け合う(Inclusive)世界があると信じて。

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