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ECB、18年ぶりの戦略修正の中身 ~ハト派中銀への生まれ変わり~

18年ぶりの新戦略発表
7月8日、ECBは1年半にわたる戦略見直し(strategy review)の結果を公表しました:

2020年1月に正式スタートが表明された見直しは2020年中に完了する予定でしたが、パンデミック対応もあり半年間後ずれした格好です。従前の金融政策戦略は2003年に見直されているので、実に18年ぶりの修正ということになります。ちなみに「次回見直しは2025年」ということで4年後の見直しが宣言されています。昨今の経済・金融情勢の移り変わりの早さを捉えて、機動的な修正を加える方針が窺い知れます。

戦略修正の見所はいくつかありますが、やはりヘッドラインとして取り上げられている物価目標の定義変更が金融市場にとっては重要です。今後、ECBの「次の一手」を睨む上でもこうした物価目標に係る戦略変更が陰に陽に影響してくるはずなので、その内容を簡単に整理しておきたいところです。今回の戦略見直しに際しては、東洋経済新報社から発刊させて頂いている拙著『ECB 欧州中央銀行: 組織、戦略から銀行監督まで』をお読み頂き照会して下さる方もいらっしゃいました。確かに、こちらの記述も合わせて今回の戦略見直しを読むと新旧の変化が良く分かり、一段と理解が深まると思われる。もし宜しければお手に取って頂ければ嬉しいです:


糊代論を肯定したECB
物価安定の適切な尺度としては、引き続きユーロ圏消費者物価指数(HICP)が挙げられていますが、今後はこれまで除外されていた帰属家賃も勘案することになりました。帰属家賃とは例えば持ち家に対して家賃を支払っていると仮定した場合のコスト等を指します。欧米の帰属家賃は日本のそれに比べて上振れしやすいという見方もあり、今回ECBがこれを勘案することで物価目標達成がやや容易になったという可能性もあります

その上で市場が注目する物価目標の定義修正に目を移すと、まず「物価の上振れ余地を確保することで政策金利が実効下限(ELB:Effective Lower Bound)に近い状態でも政策対応に余裕を与えることができる」と今回の修正にあたっての理由が示されています。これは一般論としてはその通りでしょう。緩和手段のカードが残り少ない状態であるほど、物価は高い方が望ましいです(物価が低いと何らかの手段を打たねばならなくなるので)。

しかし、これはいわゆる「将来利下げするために、現在利上げすべき」といったような「糊代論」の肯定でもあり、公式に掲げてしまうのはやや危うさがあります。そもそも、市井の人々にとって「ECBの政策対応に余裕が生まれる」という理由が物価上振れを許容する理由になるのかという疑問もあります。今回の戦略見直しはパブリックヒアリングも経ているのだが、本当にそれが活かされているのかという印象も抱かれました。

「物価目標を引き上げ」の意味
各種メディアのヘッドラインは今回の戦略見直しに関し、こぞって「物価目標引き上げ」といった報じ方をしています。この意味は一瞥して分かりにくいので解説が必要でしょう。端的には、今回の修正を経て「対称性(symmetry)」の論点が明示されたことが重要です。

元々ECBの物価目標の定義は「中期的に2%未満であるがその近辺(below, but close to, 2% over the medium term)」とされ、このフレーズは市場参加者の中では比較的有名なものとして知られてきました。「2%未満であるがその近辺」とは暗に「2%には届かない方が良い」という思いも含んでおり、この背景にはあくまで「物価は上昇するもの」という警戒感が隠れています。ですが、今や先進国を中心として「物価はなかなか上昇しないもの」という問題意識に切り替わりつつあります。「2%未満であるがその近辺」という表現が時代に即しているとは言い難いでしょう。

そこで物価目標はあくまで対称的(symmetric)であるという修正が今回は施されています。要は「2%は目指すべき天井ではない」という話で、「2.5%も1.5%も目標とする2%から乖離しているという意味では(0.5%ポイント乖離しているという意味で)等しくリスクである」という考え方です。この点は2%から上下双方向の乖離について「等しく望ましくない(equally undesirable)」と公表文にも明記されています。こうなると2.0%を超えたからと言って直ぐに引き締め的な対応を取るという話にはなりにくいでしょう。公表文では「This may also imply a transitory period in which inflation is moderately above target」との一文が挿入され、わざわざ上振れするケースにも明記がありました。従前の定義が「2%には届かない方が良い」という意味だったことに比較して、各メディアのヘッドラインは「物価上振れ容認」とか「物価目標を引き上げ」といった表現になっているのには相応の理由があります。

もっとも、ドラギ元ECB総裁が2019年6月のECB年次総会で「物価目標の対称性を明確化すること(clarifying the symmetry of our aim)」に言及しており、同年7月の政策理事会声明文からsymmetryが登場し、継続的に使用されています。それゆえ、今回の戦略見直しは現状追認であるという印象も抱かれます。この点、会見では「この戦略見直しで金融政策運営の何が変わるのでしょうか。対称性の議論は既に織り込まれており、その意味で今回は追認しただけという理解で良いでしょうか」とずばり質している記者も現れています。これに対し、ラガルドECB総裁は「たいしたことないという話でしょうか。残念ながら、私はそう思いません。これは大変な変化です(I think it is quite a lot)」と重要性を説いている。確かに、上下双方向の乖離を同等にリスク視する(undesirableと見る)と明記したことでその意図はクリアになりました。しかし、実際のところ、それで政策運営が劇的に変わるということもないでしょう。7月政策理事会では声明文に新戦略の意図を織り込むように修正を考えているという報道も見られてはいますが、運営が具体的に修正されるとは思いません。

バブルの生成・崩壊を注視か
ところで、大々的に報じられていないポイントとして分析手法が修正されたことも目を引きます。これまでECBは経済分析と金融分析による「2本柱アプローチ(two pillar approach)」を軸に政策決定を行ってきました。政策理事会後の声明文も経済分析(economic analysis)と金融分析(monetary analysis)に関するパラグラフは太文字で分かるようになっています。

今回の戦略修正では、これらの分析にfinancial analysisが加わるとしています。ここで日本語訳が難しくなります。monetary analysisは元々マネーサプライなどを注視していたので今後は貨幣分析と訳し、新しく加わったfinancial analysisが金融分析ということになるでしょうか。厳密には①経済分析(economic analysis)と②貨幣・金融分析(monetary and financial analysis)の2本柱ということなります

では金融分析とは何を指すのでしょうか。公表文には「medium-term price stability from financial imbalances and monetary factors」とあるので、金融不均衡(financial imbalance)、すなわち資産バブルの生成・崩壊などが物価安定に及ぼす影響を注視するということだと見受けられます。もちろん、これまでもmonetary analysisの中で資産バブルの兆候は注視されていたはずですが、今回は明文化されました。この辺りはいかにもドイツを筆頭とするタカ派メンバーが主張しそうな論点であり、資産市場への警戒が格上げされたという点で、昨今の金融市場の雰囲気を思えば、タカ派的な修正と言えそうです

分かり難さが否めない物価目標
なお、質疑応答では「一時的に物価上昇を容認(tolerate)するというが、どれくらいのオーバーシュートをどれくらいの時間軸で容認するのか」と質す記者がいました。これに対しラガルド総裁は「物価目標はあくまで中期的であり、金融政策の発動から物価に影響が及ぶまでのラグや不確実性を踏まえれば、短期的な物価の上下動に対応するのではなく、あくまで中期的な安定を念頭に政策運営を行う」という公表文を要約したような回答を繰り返すだけで言質を与えませんでした。しかし、別の記者からも「容認する(tolerating)と目指す(targeting)は全然違うものです。ECBはより高い物価上昇率について、目指すの(targeting)ではなく容認(tolerating)するということは、2%からのオーバーシュートは目標ではないということでしょうか」という質問も出ています。これもラガルド総裁は上述の趣旨を繰り返すだけで、有益な情報は見られませんでした。記者はオーバーシュートを目指すのかどうか知りたいようですが、そこは判然としません。

率直に言って、今回の物価目標の修正は、厳密に理解しようとすれば、かなり分かり難さを孕むのは事実です。質疑応答で似たような質問が相次ぐのは、一見してその意図が伝わっていない証左でしょう。普段、ECBを精査している記者達でもそう感じるのですから、金融市場全般にとっては推して知るべしです。上述の一連の質疑を経ても、さらに別の記者が「申し訳ないのですが、未だに物価目標のオーバーシュートが目標なのかどうか分かりません。ECBは中期的に物価目標をオーバーシュートさせることにコミットしているのでしょうか。それとも低インフレに対するECBの政策対応の1つの結果としてオーバーシュートするに過ぎないということでしょうか。そこをクリアにすることが大事です」と質しています。ラガルド総裁が類似の回答を繰り返すために、似たような問答が繰り返されていました。

今後、金融市場でもECBの物価目標を如何に解釈すべきなのかという議論は継続的に行われそうです。

ハト派的修正であることは確か
しかし、総じて言えば、今回の修正がハト派的であることは確かでしょう。旧来の物価安定の定義「2%未満であるがその近辺」ではオーバーシュートの余地が皆無だったのだから、それが容認(tolerating)しているのであろうと、目指している(targeting)であろうと、ECBがより物価上昇に寛容な中央銀行に生まれ変わったという事実は残ります

漠然とした話しぶりが目立ったラガルド総裁ですが、会見中に「from below, but close to, 2% to 2%」と言及しており「これは非常にシンプルで確固たるものだ」と述べています。市場参加者としてはその点を押さえておけば良いでしょう。そのほか気候変動にかかる論点についても相応に話題性を帯びるものですが、こちらの議論は別の機会に譲りたいと思います。

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