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フェミニズムとミソジニーの議論をパワポで考えていたら「無意識の既得権益」が見えてきた。(後編)

前回の記事では「射精責任」という書籍の発売をめぐって起きている論争をきっかけに、思考のフレームを整理した。

その結果「◯◯で得をした or 損をした」という経験を拡げようとした場合に軋轢が生まれやすいこと。特に「得をした」という経験を拡大させる場合、得の上限によっては抵抗勢力が生まれやすく、それは同時に「無意識の既得権益」が顕在化するトリガーである、という話を書いた。

後編では、この「無意識の既得権益」について、また既得権益の逆の概念(生まれ持った損)やミソジニーについて考えていく。

今日はそんな話。

■その既得権益は心地良いか、心地悪いか

無意識の既得権益は、それが奪われそうになった際に顕在化し易い

しかし日頃から無意識の既得権益に違和感や「心地悪さ」を感じている人もいる。

前半でも書いたサウナの事例では、最近特に表面化している。

女性サウナーが増えたことで、パートナーと一緒にサウナを楽しみたいという男性も増えたはずだ。

しかし現在は、男性専用のサウナが多くてそれが叶わない。

こうなると男性は自分の既得権益に「心地悪さ」を感じ易い。

実際、そもそもサウナ界隈において「男性だけが得をしている」という現実に、どこか後ろめたさを感じているサウナー男性も少なくなかったdろう。

もしお気に入りの男性専用サウナが「施設の半分を女性スペースにする」という検討に入った場合、賛成する男性はどのくらいいるだろう。

もし日頃から感じていた既得権益に「心地悪さ」を感じていれば、自分の得を返上して、既得権益は解放に向かうだろう。

一方で、日頃から自分の既得権益を意識していないと、自分のデメリットだけが意識され、享受していた「得」は解放に向かわない。

むしろ、奪われそうな得を守ろうとする。「独占したい」という欲求が勝ってしまう。

「性別にとって得や損が決まったらよくないよね!」という理想論に近づくには、まず日頃から無意識の既得権益を意識する必要がある。

■無意識の既得権益による勘違いとミソジニー

先ほど無意識の既得権益に対して「心地悪さ」を感じているパターンを書いたが、逆に「心地良さ」を感じている人も一定数いる。

僕はこの「心地良さ」から生まれるのがミソジニー的な発想だと考えている。

ミソジニーとは「女性に対する蔑視」のことだが、男性だけが抱く感情ではない。ミソジニーの本質は「男性の方が優れている」とする発想のことで「女は男の3歩後ろを歩くべきだ(なぜなら男性の方が優れているから)」という考えを持っている人は、女性でもミソジニー的な発想と言える。

サウナの例で言えば「サウナは男の特権」「女にサウナなんて必要ない」と捉えている人がそれに当たる。

このタイプの人は、生まれ持った既得権益に心地良さを感じてしまっている。

自分は「たまたま男性として生まれただけ」なのに、そんな男性にだけ許された趣味があることを「男性が優れているから(or 男性だけが大変だから)」という心地良さに置き換えてしまっている。

こうなってしまうと、必要以上に既得権益にしがみつこうとする人が誕生する。

1つのサウナを男女で分け合うのではなく、女性専用のサウナをつくろうとした時にさえ抵抗するのがこの手のタイプだ。

自分に直接的な不利益があるわけでないのに、自分が生まれ持った性の特権が拡大することへの抵抗。その背景には、アイデンティティーに対する執着や固執、排他的な思想や独占欲が感じられる。(これは男女共に言える)

自らの努力によって勝ち取った特権を主張するのはまだ理解できるが、性別や出身地など、たまたま獲得しただけの特権にしがみつくか、解放するかか。

簡単なことではないが、この視点もまた理想論に近づくために必要だ。

■妊娠というリスクを、どう分散するか

ここまで「無意識の既得権益」について書いてきたが、ことの発端はその逆だ。

(まだ発売されていないので憶測に過ぎないが)「射精責任」という書籍の背景にあるのは「女性だけが妊娠という身体的なリスク(損)を抱えている」という現実だ。

生まれ持った損(不平等)について、その損を「◯◯じゃない人」にも拡大するかどうか、についても考えてみたい。

ここでも「得」と同じフレームを当てはめてみる。その「損」は◯◯じゃない人に拡大することで、自分の損が減るか?という視点だ。

フレームにするとこうなる。

このフレームに「妊娠というリスク」を損として考えてみよう。

医学の進化によって、将来的に男性が妊娠できる世界は訪れるかもしれない。しかしそれでも、女性の妊娠リスクが減るわけではないので、このテーマの場合、真ん中のフェーズはBとなる。

上記の構造において、結論をAとBのどちらにするか。そのスタンスの違いが今回の「射精責任」に関する議論の根底にはある気がする。

ここでAを選択した場合、いわゆる旧来的な展開になる。

「妊娠は女性がするから、男性は別のことを頑張って」という「男は仕事、女は子育て」的な発想だ。

しかし「射精責任」という言葉から持つ印象はBに近い。これまでAのアプローチだった女性たちが、突然(?)Bのアプローチを取ったことに対する男性たちの混乱こそ、今回の反響の一端ではないだろうか。

射精責任という言葉を聞いて「突然、損の側面が押し付けれた」と感じた場合、防衛本能として発するのが

・女だって受精責任がある!
・男だって別の責任がある!

という声なのではないだろうか。

■損ではなく、責任の話

ただ、ここで考えてみたい。

射精責任はあくまでも「責任」の話。これを「損の側面を押し付けられている」と感じるかどうかは受け手次第。

そこで、先ほどまで「損」と表現していたフレームを「責任」と書き換えてみる。

このフレームに、先ほどのテーマを当てはめてみるとこうなる。

妊娠は損ではなく、責任と捉えることによって、議論が前に進む。

(身体的な)女性は妊娠するリスクがあるという責任を背負っている。そして男性は、女性に妊娠という身体リスクを背負わせる立場であるという責任を背負っている。

これで一旦、議論はフラットに戻るのではないだろうか。

それを

女性も損してるんだから、男性も損しろよ

という捉え方をしてしまうと、対立構造が生まれてしまう。

「受精責任もあるだろ!」という発想になってしまう。

前編に書いたような


「男女共に得をできたらいいよね」

もしくは

「性別を理由に損得が決まるのはよくないよね」

とい、シンプルな理想論に近づくには、相手に責任を押し付けるのではなく、自分の責任を再認識しようとするスタンスが必要になる。

実際に「射精責任」がどんな内容の本かわからないが「そんな前向きな内容だったらいいな」と発売前から考えてしまった。

サポートいただけたらグリーンラベルを買います。飲むと筆が進みます。