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デジタル化社会と人間的に付き合いたい

たまに電車に乗ると、向かい側に座ったひとは一列、ほぼ全員スマホを眺めている。縦に畳んだ紙の新聞を読もうものなら、まるで、石器時代から来たかのような好奇の目でみられる(少なくとも、そんなような気がする)。つい手持ち無沙汰のときにスマホを手に取るのは、圧倒的なスケールとスピードで情報が集まるデジタル化社会の典型的な行動だ。

しかも、その情報を自分好みのフィルターを経たものにすることも、デジタルならお手の物。その結果、つい「面白そうな」情報を「必要そうな」情報を優先してしまい、情報の偏食が起こる。個人にとっては思考の劣化、社会にとっては分断が広がる素地となる。

容赦なくデジタル化が進む社会で生きる個人にとって、その負の側面を吟味し、対抗策を立てることは非常に大切だ。情報の偏食以外にも、デジタル化が逆説的に孤独につながったり、他人との関係をうまく作れなくなったりといった問題が既に起こっていると考える。

特に、筆者を含む40代以上の世代は、インターネットの本格普及前、まだまだアナログな社会で大人になっている。デジタルネイティブでないからこそ、何がおかしいのか、直感で気が付ける最後の世代ともいえる。したがって、デジタル化社会と人間的に付き合うやり方について、私たちなりの解を出し、後続の世代へつなぐ責任があるのではないか?

デジタル化によって、遠くの家族や知らないひととも、SNSでいつでも安価につながることができる。これは一見喜ばしい反面、承認欲求という厄介な心理を掻き立てることになる。何かをポストすれば、たとえ赤の他人からでも、自分の投稿に対する反応が気になって仕方がない経験は多くの人にあるだろう。

承認されることで欲求が満たされるどころか、さらに承認されたいと、拍車がかかる。人間が本質的に抱える孤独に対して、このようなつながりは、麻薬的な「もっともっと」を呼び寄せる。その結果、本当に自分に向き合うことができず、孤独と付き合う程よい関係を作ることがない。

人間関係の築き方も、デジタル化に影響を受ける。自分が物理的に行動する範囲で知り合う少数の人と、ゆっくりと関係をはぐくむというスタイルは過去のものになりつつある。実際、デートアプリを使えばいくらでも新しい相手に出会えるし、学校の先生よりもユーチューバーから習いたい授業もあるだろう。このとき、時間がかかる関係構築は「コストパフォーマンスが悪い」と切り捨てられがちだ。

しかし、アナログに育った私たちは特に、人間関係とは「コスパ」で割り切れるものではないことを、経験的に知っている。無駄に見える時間の共有を含めてひとの縁を大切にしたり、あまり好きではないのに付き合っているうちにお互いが変わって良い友達になったりすることもある。このような交友関係は、人生の宝物だ。

デジタル化社会は私たちの日常をすっかり侵食し、正と負の両面をもたらしている。自分の孤独を直視したり、ことことスープを煮るように人間関係を育てたりする経験にこそ、人間らしさがあるのではないか?圧倒的な便利さと引き換えに、人間らしさが置き去りにされれば、いくら便利でも、幸せな世の中ではないだろう。

デジタル化社会で大人になる現代の子供たちにとって、デジタル技術を身に着けることはもちろん大切だ。一方で、常に「いま、ここ」を刹那的に求める態度ばかりを助長することは、人生の豊かさにつながらないはず。圧倒的な量の情報に踊らされることなく、ゆっくり考えたり、友達と遊んだりしながら育ってほしい。

大人も同じ。自分の生き方がデジタル化の波に押し流されていないか疑う心を持ち、程よい距離で付き合う心構えが必要だと考える。

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