父の日の物語
母が亡くなったのは、私が16歳の時だった。
あの日のことは、きっと、一生忘れられない。5人目の弟の出産は大変な難産で、弟は無事に生まれたものの、母はその後、息を引き取った。
南北戦争を機に流行し始めたエンバーミング(遺体衛生保全)が施された母の遺体を前にして、生まれたばかりの弟は、わけもわからず、おっぱいを求めて、私の腕の中で泣いている。目の前では、冷たくなった母にすがりついて泣く4人の弟たち。5人の弟たちのそれぞれ個性ある泣き声に囲まれながら、私は、気丈であろうとしていた。
私は、お姉ちゃんだ。私が、弟たちのお母さんの代わりにならないといけない。悲しんでいる暇なんて、ないんだ。私が、やらないといけなんだ。私が、弟たちを育てないといけないだ。私がーーー
そうやって張り詰めていた時、大きくてゴツゴツした手が、私を、生まれたばかりの弟ごと、力強く包み込んでくれた。お父さんだった。「ソノラ。大丈夫。大丈夫だよ」
お母さんが亡くなってから、この時はじめて、私は泣いた。部屋の泣き声が、5重奏から6重奏に変わった。しばらくすると、低い音が加わって、7重奏になった。
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私たちスマート(Smart)家は、ワシントン州スポケーンで農業を営んでいた。父はとても働き者で、南北戦争に従軍経験もある。力強くて、寡黙で、厳格だけれど、とても優しい。母が亡くなった時は、もう56歳だったが、あれから私たち6人姉弟を男手一つで育ててくれた。母が突然いなくなり、寂しい気持ちになったことは何度もあったけれど、父は、それを補って余りある愛情を、私たちに注ぎ続けてくれた。
それからしばらくして、私は結婚し、長男を出産した。今は、夫と二人で子育てに奮闘している。周囲の典型的な男性と異なり、うちは夫も子育てにコミットしてくれている。でも、若い夫婦二人がかりでも、子育ては大変だ。母になり、日々、父の強さ、優しさをかみしめることになった。お父さん、本当に、すごいなぁ。
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息子が生まれてドタバタしていたその年の5月のこと、地元の教会で、最近話題の「母の日」の催しがあった。日頃から家事育児を頑張ってくれているお母さんに感謝しよう!という趣旨のものらしい(元々の目的は、もう南北戦争に夫や息子を送らせない!という母たちの宣言だったと聞いた)。私たち家族も、興味本位で参加してみた。私たちを産み、育ててくれた母に感謝し、祈りを捧げる。その後、神父さまの説教に耳を傾けた。
神父さまの話は、例によって、まあ、いい話なのだけれど、少々眠気を誘うところがある。隣に座っている夫は、首をカックンカックンさせては、ハッとなり、何事もなかったかのようにしている。でもこの時、私の心には、ちょっと引っかかるところがあった。
「ーーーであるから、私たちを育ててくれた、母に感謝するのです。幸せな時も、困難な時も、富める時も、貧しき時も、病める時も、健やかなる時も、いつでも、母の愛は変わりません。母の愛は海より深く、神聖で、何物にも変え難いものです。であるからーーーー」
話はわかる。でも、それは父親だって同じはずだ。父は、私たち6人姉弟を男手一つで育ててくれたし、今だって弟たちを育てている。夫だって、一緒に子育てしてくれている。どうして、母の日はあるのに、父の日はないのだろう。私たちを育ててくれた父親たちにだって、感謝する日があってもいいのではないだろうか……?
私は昔から、深く考える先に、まず行動してしまうタチだった。後日すぐに教会にいって、神父さまに提案してみた。
「どうして、母の日はあるのに、父の日はないのでしょうか。私は、母と同じくらい、父にも感謝しています。私を産んでくれたのは母ですが、育ててくれたのは父です。私の父の誕生月は、6月です。母の日の次の月だし、ちょうどいいと思います。教会で、父の日もやりましょう!」
神父さまは、想定外の提案に面食らったようだ。最初はモゴモゴいうばかりだったけれど、それからもことあるごとに詰め寄る私に、根負けした。
こうして、その翌年の1910年6月、私たちの住むワシントン州スポケーンの教会で、「父の日」のイベントが催された。人々の多くは無関心で、とても小規模ではあったけれど、私は嬉しかった。父が喜んでくれたのだ。とても誇らしそうだった。思えば、私たちをここまで育ててくれた感謝の気持ちを、父にはっきり伝えていなかった。本当に、やってよかった。
それから毎年、父の日が継続して行われるように、私は地域で活動するようになった。
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でも、父の日は、母の日のようには広がらなかった。1914年には、母の日はアメリカの記念日として、正式に議会で定められた。一方、父の日はまだ地域のイベントに過ぎない。国をあげて、母には感謝するのに、父にはしない。なんでこんな差が出てしまうんだろう……。
いや、理由はわかっている。私は、私たちを育ててくれた父に感謝したくてこのイベントを始めた。でも、多くの父親は、家庭から遠い。この時代、アメリカに限らず、どの社会でも男尊女卑の思想、ジェンダーロールの偏見は酷い(まだ女性には、参政権すらないのだ)。男性の多くは、家事育児を女性に押し付けている。もちろん、家族のためにと、一生懸命夜遅くまで働いている父親は多いだろう。でも、少なくとも、子どもの立場からすれば、「育ててくれてありがとう」というならば、父と母、どっちにより気持ちがこもるかは、考えるまでもない。
私の父の日を広めようとする活動は、周囲の人の目にはとても奇異なものに映ったようだ。「なにかビジネスに結びつけようとしているのか?」という批判までやってきた(なんと、連邦議会で父の日が話題にあがった時、実際に議員が何名かそのように発言したらしい)。そんな批判は、母の日に関しては、一切聞いたことがないのに。
私の父の日の活動は、徐々に勢いを失っていった。私の勉強のために家族でシカゴに転居したのが表向きの理由だったけれど、本音は、私の情熱が萎えていったのだ。なんのために頑張っているのか、わからなくなってしまった。
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そんな中、1919年、父が亡くなった。末の弟マーシャルが成人してすぐの出来事だった。「俺はやり切ったぞ」といわんばかりだ。本当にお父さんらしい、と思った。
姉弟みんなで集まって、生前の父について話をした。たくさんの思い出話に花が咲いた。その時、末弟のマーシャルがポツリとつぶやいた。
「そういえば、最初の父の日の時、父さん、本当に嬉しそうだったよね。あの後も、しきりに話をしていたよ。仕事ではたいして稼げなかったけど、お前たちを育て上げたのが、俺の誇りだって……」
……そうだ。そうだよ。
確かに、お父さんは、キャリアでいったら特筆すべきものはないかもしれない。どこにでもいる、普通の農家だ。でも、私たちにとっては、最高のお父さんだ。全世界のどこに出したって恥ずかしくない。
それなのに、この時代、社会から称賛される男性は仕事一筋でキャリアを築き上げてきた人ばかりだ。それはそれで、もちろん立派かもしれない。でも、私たちのお父さんだって同じくらい立派だ。そんな男性のあり方だって、認められていいはずだ。もっと称賛されていいはずだ。それが、旧態依然とした今のジェンダーロールに、一撃を加えることにもなるのではないだろうか。
お父さんは、やり切った。でも、私はまだ、やり切ってない。この時、私の心に火がついた。
シカゴからスポケーンに戻ってきて、私は父の日を広める活動を本格化させた。これまでは地域の中で仲間と一緒に地道に活動をしていたけど、全米に広めるために、企業や団体とも連携し、組織的に動くようになった。
「商業主義的な企画」「母の日の成功に便乗」といったような批判はますます増えた。大変光栄なことに、大手新聞社まで批判的な記事を書き始めた。政治家たちもおおっぴらに議会で批判するようになった。でも、私たちは諦めなかった。
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それから約40年の月日が流れて、1966年6月15日。母の日が正式な国の記念日に認められてから、52年。私はもう、84歳になっていた。耳も遠くなっていたけれど、この日、テレビから流れてくる大統領の声は、はっきり聞こえた。6月の第3週の日曜日を父の日とすることを、大統領が公式に宣言したのだ(この6年後、父の日は正式に米国議会で承認され、国民の記念日となった)。
わが国の家庭では、父親に対し、立派な家族の特徴である強さと安定を提供することが期待されています。
父親の責任は、大きい。しかし、その報酬もまた大きい。子どもや配偶者からの愛、感謝、尊敬を得ることができるでしょう。このような父親への思いを公にしたいという思いから、米国議会は父の日の正式な制定を求めます。
もちろん、父の日が制定されたからといって、何かが急に変わるわけではないだろう。アメリカでは、相変わらず家事育児は女性の仕事だ。他の国でも、状況は大して変わらないと聞いている。
でもこの日、父親たちが、自身の父親としてのあり方を見つめ直すきっかけになったとしたら、こんなに素敵なことはないと思う。きっとお父さんも、よくやったって、いってくれるはずだ。
私は、やり切った。あとは、若い人たちに託そうと思う。どうか、父の日も母の日と同じくらい、子どもたちとパートナーの敬意と感謝が集まる日になりますように。
家事育児に奮闘するお父さんたちへ、敬意を込めて。
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