見出し画像

「世の中に〇〇は少ない」と思った時がすべてのはじまり。

例えば、街を歩いて数多くの店の前を通過すれば、「〇〇ってなんと多いのだ」という印象だけが残ります。〇〇は服でも靴でも何でもいいです。とにかく、世の中には〇〇が溢れている、とのフレーズを確認するに十分な経験です。

しかし、一旦、自分が本当に欲しいと思う〇〇を思い描いて街を歩くと、「〇〇ってなんと少ないのだ」と気づきます。「ちょっと違うんだよなあ」と感じるものばかりが視界に飛び込んでくるのです。

つまり、「〇〇は多い」と思っている段階ではまだ世の中は見えておらず、「〇〇は少ない」と気づいて初めて世の中が見えてくるのです。

今回は、これをテーマに書いていきます。

世の中にはダサいものが少なくなった

2年半前、服飾史研究家の中野香織さんと出した『新・ラグジュアリー――文化が生み出す経済 10の講義』の「はじめに」でぼくは以下を記しました。

 経済的に発展した国において、「イケていないもの」が減ってきました。今やイケアや無印良品のような企業の商品が家庭やオフィスにかなり普及しています。値段はそれほど高くなく、デザインもそれなりのレベル。人々は高いお金を払って野暮ったいものーもっと卑近な表現を使えば「ダサいもの」に手を出す危険性がなくなったのです
<中略>
 しかしながら、心から欲しいと思える、突出した「願い」が表現されたような、インパクトのあるモノやコトに触れたい。そういう想いを抱くことはありませんか?
 たとえほかのものにお金を使うのを我慢しても、「絶対、これが欲しい。これなら深く愛して長く持ちたい」と思える。手にした瞬間、「あ、そうか、みんなが言っているサステナビリティって、こういうことだったんだ」と思わず独り言が出てしまう。言葉を知っていてもしっかりと理解できていなかったことが、身体全体で納得できる。そのような経験を、実は欲していませんか?

一見、ものが溢れ、しかもそれぞれのものはそれなりのレベルに見えるーだが、その状況に幸せであると感じるか?を問うとそんなことはないのです。なぜなら、「これ!こういうのを探していたんだ」と一瞬にしてはしゃぎたくなり、その後、深く思いを馳せるようなものが溢れているとは言い難いからです。

それでもちょっと見には、「満足すべき現況に不満をいうのは、お前の性格の問題だ」と迫られるような気になるような仕組みになっているのですね。ほどほどに人は充足感を覚えるのが妥当だ、と。

他方、「いや、ほどほどと心の底から満足することは同一視できない」と思うのが、この話をする動機です。実は、この文脈において民藝運動に参照すべき点が多いのでは、と考えました。

民藝運動の動機づけは何だったか?

今からおよそ100年前、民藝運動というものがありました。柳宗悦が1920年代の半ばあたりから起こした運動です。浜田庄司や河井寛次郎などの陶芸や芹沢銈介の染色、棟方志功の版画が民藝作家の作品として思い浮かびますが、柳は農民の名のない作り手によるモノのすばらしさに「文化の特色」を見いだしたのです。

柳は日本における手仕事の良さを再発見する日本全国を巡る旅を、その頃から20年くらいの時間をかけて行いました。その結果は『手仕事の日本』という本にまとめられています。

後記にその趣旨があります。

第一は手仕事が日本にとって、どんなに大切なものだかを語るでしょう。固有の日本の姿を求めるなら、どうしても手仕事を顧みねばなりません。もしこの力が衰えたら、日本人は特色の乏しい暮らしをしなければならなくなるでしょう。手仕事こそは日本を守っている大きな力の一つなのであります。

時代は日本が欧州と米国に興隆した機械産業に追いつかんとするなかで、急激に手仕事というパートが減少しつつあった。地方においては手仕事による質の高いものがまだ残っていたが、都市周辺においては消滅の速度が速いことに危機意識をもったのです。

第二に、この一冊は日本にどんなに多くの手仕事が今なお残っているかを明らかにするでしょう。昔から比べたらずっと減っていますが、それでも欧米などに比べますと、遥かに恵まれた状態にあることを見いだします。それ故この事実を活かし育てることこそ、国民の賢明な道ではないでしょうか。

要は産業革命の出遅れが、手仕事においては功を奏していたことがわかります。機械生産によるモノの品質が冴えないとき、英国でウイリアム・モリスによってアーツアンドクラフツ運動がおこり手仕事の再評価がアピールされたのが1880年代ですから、およそ40年後に日本で同様の価値に目がいったことになります。柳は、この40年を「失われた半世紀」にしない策を施そうと考えたのでしょう。

第三には地方的な郷土の存在が、今の日本にとってどんなに大きな役割を演じているかを明らかにするでしょう。それらの土地の多くはただに品物に特色ある性質を与えているのみならず、美しくまた健康な性質をも約束しているのであります。私たちはそれらのものを如何に悦びを以て語り合ってよいでありましょう。

生活の西洋化によって固有の風景を失った都市ではないところー地方ーに個性的な文化を見いだすわけですが、柳は殊に東北に見るべきものが多いと強調しています。

ここで柳が強く主張する点でぼくが繰り返したい箇所は以下です。

ただ一つここで注意したいのは、吾々が固有のものを尊ぶということは、他の国のものをそしるとか侮るとかいう意味が伴ってはなりません。もし桜が梅を謗ったら愚かだと誰からも言われるでしょう。国々はお互いに固有のものを尊び合わねばなりません。(中略)世界は一つに結ばれているものだということを、かえって固有のものから学びます

この部分はぼくがヴェネツィアのホモファーベルでの感想として「クラフトがつくる世界ー差別化より共通点を探る方向への転換をヴェネツィアでみた。」で書いたことと重なります。

ローカルの固有さが文化アイデンティと結びつき、この30年間はグローバル化の対立項としてローカルのクラフトが強調されるきらいがあったが、世界各地で争いが生じる現況にあってはユニバーサルへの志向が求められてしかるべきでしょう。

柳の指摘する「(読者に)ただ注意していただきたい」もう一点。

ただ注意して頂きたいのは、この本はけじめもなく現在の品物をならべ数えたのではなく、正しい美しさを持つもののみを顧みたことであります。それ故雑然とした記述を避け、一定の目標を立てて取捨選択を施してあります。私が何を信頼し得るべき品であるかを読者に語る義務を感じました。

単に民衆の生活に使われる実用品の美しさを当たり障りなく褒めまくっているのではなく、柳は「これは質が落ちた」とかそうとうに辛辣な批評を加えながら、立体的に手仕事への評価軸を示しています。これがぼくが「日本のクラフトを欧州で売るに必要とされる視点」で指摘したスタイルやテイストの必要性と間接的に繋がってきます。

もちろん、柳は日本で生活する人々の生活の豊かさを享受する方向として指針を示したのですが、審美眼において妥協が少ない姿勢こそが十全な満足度を導くとの信念をもっていたと窺えます

つまりは、ラグジュアリーとは妥協の産物を回避するものだとの意味において、柳のクラフトへの態度と軌を一にするのはないか?と考えました。

21世紀の現在、機械生産が故に品質が低いとはされず、逆に品質がそれなりに良いが面白みに欠けるー前述を再び引用するならば「値段はそれほど高くなく、デザインもそれなりのレベル。人々は高いお金を払って野暮ったいものーもっと卑近な表現を使えば「ダサいもの」に手を出す危険性がなくなったのです」時代における妥協の性質は違いますが、妥協を嫌う人たちにとっては受難の状況である、というわけです。

以下の講座でローカルのクラフトをテーマとしているのも、このような背景があります。

尚、LVMHでは次のような活動が10年前からスタートしています。

LVMHは15年に先進的な製造業者と職人のグローバルなネットワーク開発を目的とする「Métiers d'Art/メティエ・ダール」を創設。持続可能性に重点を置きながら革新・開発を促進する。牧畜から、皮革なめし、金属加工、繊維や布生産まで、主要である服飾・皮革事業でのものづくりにおける基盤の活性化に統合的に取り組んでいる。

冒頭の写真©Ken Anzai



いいなと思ったら応援しよう!