僕が「昇進おめでとう」と言えないのは、昇進が目的の人に偉くなってほしくないから。
進級おめでとう。
就職おめでとう。
結婚おめでとう。
世の中に存在するいくつもの「おめでとう」なシーン。
ただその中に1つ、僕がモヤモヤしてしまう「おめでとう」がある。
それが出世に対する「おめでとう」だ。
ビジネスパーソンにとって、出世した人に「おめでとう」と言うのは当たり前かもしれない。
それなのになぜ、僕はその当たり前にモヤモヤしてしまうのか。
パワポを使って、自分の気持ちと向き合ってみた。
今日はそんな話。
■会社と出世は切っても切れない
半沢直樹は、銀行のトップである頭取を目指している。
島耕作は、課長から会長にまで上り詰めた。
ビジネスパーソンと出世は、切っても切れないテーマだ。
一方、最近の若者は出世を望まなくなった、という話もある。
管理職になると面倒も増える。
出世が本人にとって本当におめでたいかどうか、は人それぞれだろう。
ただ僕が議題にしたいのは、そこではない。
周囲が出世に対して「おめでとう」と言う行為に対するモヤモヤの正体だ。
■会社は出世レース、という固定観念
モヤモヤの原体験はこんなシーンだった。
新入社員の頃、同じ部だったAさんの部長昇進が発表された。
すると周囲は、こぞって「おめでとうございます」とAさんに声をかけた。
近くには、Aさんの同期であるBさんがいた。
その瞬間が、僕にはこう見えた。
僕が「おめでとうございます」と投げかけることで、同時に「おめでたくない人」が産まれてしまう気がして「おめでとうございます」と言えなかった。
今思えば、Bさんに失礼な話だ。
別にBさんは周囲に「Aさんよりも早く出世したい」などと言っていたわけではない。
それなのに僕は「会社は出世レース」という固定観念に囚われ、Bさんに寄り添ったフリをして「かわいそう」のレッテルを一方的に押し付けようとした。
自分の固定観念に気づかず、
勝手な正義感を振りかざし、
あたかも誰かを守ったように振る舞った当時の自分が恥ずかしい。
その構造は、以前僕が非難した↓の人たちと同じだ。
では、今同じ状況が起こったら僕は「おめでとうございます」と言うだろうか。
答えは、それでも言わないだろう。
もう少し、考えてみたい。
■「昇進おめでとう」を因数分解する
この「おめでとう」に対する違和感の1つに「何を祝っているかが不明瞭」がある。
そこで「昇進おめでとう」を因数分解してみる。
どうだろう。
この中のどれに対して「おめでとう!」と言っているのかが不明瞭なことは、僕がモヤモヤする理由の1つだ。
ただこの整理、つくってみたものの、どうもスッキリしない。
例えば「仕事が大きくなる」と「裁量権が増える」は連動している。
また「責任が増えるから、給与が上がる」とも言えるし「給与が上がるから、責任が増える」とも言える。
1つ1つ意味が被っているし、ループするものも多い。
これらをスッキリさせる、ためにもう1つ文脈を足してみる。
会社から評価されたから、昇進した → 給与が上がる。
会社から評価されたから、昇進した → 部下が増える。
会社から評価されたから、昇進した → 裁量権が拡大する。
要するに全ては会社から「評価された」結果であって、「おめでとう」は「(評価されて)おめでとう」言っているのではないか。
そう考えると給与も裁量権も副産物だ。
祝意の本質は「評価されたこと」に対して向けられている、とするとだいぶスッキリする。
■出世は手段か目的か
モヤモヤが少し晴れてきた。
僕が「昇進おめでとう」と言えない理由も見えてきた。
僕は「おめでとう」とは相手が望んでいた目的が達成した時にかけるべき言葉だと思っている。
だから「結婚したい」と思っていた人が結婚した時は「結婚おめでとう」と言いたいし、「就職したい」と思っていた人が就職できた時には「就職おめでとう」と言いたい。
同様に「退職したい」と思っていた人が退職できた時にだって「退職おめでとう」だし、「離婚したい」と思っていた人が離婚した時には「離婚おめでとう」だ。
話を戻そう。
つまり、僕が「昇進おめでとう」と言う相手は「昇進を目的にしていた人」「評価されることを目的にしていた人」ということになる。
はい、わかった。
僕は「昇進する(評価される)ことを目的にしている人」に昇進してほしいと思っていない。
これがモヤモヤのすべてだろう。
評価されれば、その人の承認欲求は満たされる。
承認欲求が満たされることは、もちろん悪いことではない。
若いうちはどんどん満たされた方がいい。そのために若い人向けのポストや受賞制度は必要だ。
ただ上の立場になる人間は少し違う。
偉くなる、ということは「評価される側」から「評価する側」になる、ということだ。評価する側の人間は、いつまでも自分の評価に固執してはいけない。
会社とは同じ理想や目的の元に集まった1つのチームだ。
そんなチームリーダーのベクトルが、自分の目的に向かい、チームの目的を見失っては、会社は本来の目的を果たせなくなる。
自分が評価されることが目的の人ばかりが偉くなれば、部下に対する評価基準も「自分を昇進させてくれそうな人」、「自分を評価してくれる人」になり、組織は抜け出せない沼にハマるだろう。
少なくとも僕はそんな組織にはいたくないし、そんな組織にはしたくない。
だから僕はこれからもきっと「昇進おめでとう」とは言えないだろう。
モヤモヤの解明にお付き合いいただき、ありがとうございました。